秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

孤独の中の一粒の種

映画や演劇、あるいは音楽その他、表現の世界にいる人、あるいは、その世界で生きようとしている人とそうではない人との間に、実質的には何の違いもない。
 
進もうとしている道、取り組もうとしているなにかが違うだけで、人としての存在のあり方に相違があるわけではない。
 
だが、表現に生きようとする人、あるいは、現実に生きている人とそうではない人とでは、踏み込める世界と踏み込めない世界がある。

親しげに語らうことも、作品や表現について意見を交換することもできるだろう。だが、表現の本質的なことについて、語り合うには、同じく表現というものに深くかかわらないとわからないことが多い。
 
そして、それは表現にかかわらない人に詳細に語ることでもなければ、わかってもらわなければならないことでもない。表現とは、現れたもので判断し、感じ、受け止めてもらうのが本道だからだ。

言葉で語り、説明し、作品や表現の提示に至るまでの制作の微細を知らせることは、あるいはその過程の表現者の私生活を知らせることは、表現というものの意味と価値を失わせる。できるのは、せいぜい、なぜ、それをいま表現しようとしたのかという思いの部分だけだと思う。

それゆえに、表現にかかわる人とそうではない人の間に、人としての違いはないにもかかわらず、見えない世界が存在する。あえていえば、見えない世界を持てる人でなければ、表現者ともいえない。

これをある人たちはカン違いする。人として違いはないのだから、見えない世界はないと思ってしまうのだ。そして、人をある程度知ると、その人の取り組んでいる表現という世界もどこかわかったような気になってしまう。
 
しかし、それは大きな誤解と錯覚。じつは、そういう人ほど、なにもわかってはいない。同時に、そうした誤解と錯覚をつくってしまう側にも、表現者としての何かが欠けている。

結論からいうと、あらゆる表現者はどこかで孤独でなくてはいけない。孤独であることで、つくられる創造の種を知る人でなくてはいけない。本当の意味で、そうした人がつながり合えるのは、その孤独の中にある創造の種のことを知る人だ。

それを知る人は、わかったように踏み込んでくる人とは接しない。あるいは、その世界へ踏み込もうともしない。人としての違いのないところでふれあい、その表現する人をひとりの人間として尊重しようとする。

また、表現する人も、その人が本物であれば、よくわかってない人たちにチヤホヤされて満足したり、打算で名前を売ったり、いい顔を見せようとはしない。饒舌に、知らない人に自分がかかわっている表現の世界を語ることもない。表現を通じてではなく、ひとりの人間としてつながることが大事だと知るからだ。

孤独の中にある一粒の種…人を感動させ、喜ばせ、笑わせ、生きる気力や明日への希望、あるいは、この世界の現実の不条理や理不尽さ、それられを伝えられる基本にあるのは、皮肉なことに、どこかにそれを抱え続けることなのだ。