秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

燕は戻ってこない

 

書籍をわずか数時間で読破したのは、五木寛之などの大衆小説を貪るように読んでいた、高校生の頃以来かもしれない。

新刊の桐野夏生著『燕は戻ってこない』。

www.shueisha.co.jp

決して短い小説ではないが、最初の1ぺ―ジで引き込まれ、午前遅い時間から読み始めて、夕方には完読していた。

 

折しも、5年以上前から女性の貧困をテーマに映画製作をやりたいと考え、短編ながら何とか上映にこぎつけ、劇場での先行公開が終わったばかりだったということもある。

扱っているモチーフ、視点が拙作のショートフィルム『一瞬の雨』(中島ひろ子主演)と同じだったからだ。

【一瞬の雨】 記事 – FOR THE ONE PROJECT

 

しかし、桐野氏は、そこに生活のために代理母という選択をするアラ30の女性を登場させ、格差の現実を声高にではなく、新しいいのちの誕生という女性ならではの視点と生理を織り込みながら力強く、鋭く提示している。

私の作品では、そこに夫の暴力から逃れて生活する母子家庭の困窮と生活のために性を生きる糧としなければならない女性性の現実を織り込んだ。

いずれも決して特質した事例ではない。普段着の顔をした貧困がじつはいまこの社会には深く厚い霧のように広がっている。

普段着の顔ができているのは、貧困を表立って姿形にすることへのためらいが自己責任という名の下に個人に押し付けれられていることがある。普段着を装っていないと、あからさまに社会の落ちこぼれというスティグマが押印され、仲間を失う。そればかりが、自分自身がそれを認めてしまうことで、自分で自分を見限るしかない怖さがあるからだ。

 

いつかここから自分の力で抜け出せる。それが自己を辛くも維持できる唯一の希望であり、死なないでいられる寄すがだから。

 

正規雇用でしか働けない、正規で働けたとしても給料だけでは生活できない低賃金労働はいま特別なことではなくなっている。しかし、いまのように、生活格差の実態が大きく分断された社会にあって、その現実を実感できる人とそうではない人の隔絶は甚だしい。

貧しく苦しい暮らしに直面している人たちが普段着を装っている限り、その実態が大きく社会の声とされることはない。

この国は長い間の管理教育の中で、自分の権利を主張することや誤った制度、社会構造へ異議を唱える力を子どもたち、大人たちから奪い尽くした。社会の不条理や不平等に異議を唱えることが誤りで、不条理や不平等による苦難は自己責任に置き換えられて来たからだ。

この国で革命は起きない。ぼくは高校時代から学生運動にかかわってきたが、団塊世代のように革命を信じたことはない。社会変革のために人を殺すことのできない革命は言葉だけの遊びだからだ。

本気でこの国を変えたいというなら、最終的な手段として血を流す覚悟なくして国を変えることなどできないのだ。しかも大衆の支持を得る形で。その露ほどの歴史のない国では、政治家がきれい事の社会改革をいい、それを権力があの手この手でつぶすという現実の社会とは程遠いところで、お子様ごっこのように議論し合ってるだけの国に過ぎない。

だから、ほんとに変えたいと思う人間は、巣から飛び立ったら、二度とそこへは戻って来ない。変えれらない人間たちの慣れあい、もたれ合いの世界にいるより、別の世界を探した方が早いと学ぶからだ。