秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

カスタマイズ

いま社会が個を読めなくなっている。

少子化における結婚、子育て、出産、女性・男性の就労形態の問題にせよ。高齢化における医療、介護、生活支援の問題にせよ。若年層の就労形態による賃金格差、生活格差と地域からの流出にせよ。生活保護世帯や仮設避難住宅世帯の問題にせよ。あるいは、福島第一原発事故における被害とその対策の問題にせよ。
 
すべてにおいて、多様な個の生活がそこにあり、多様でひとつにくくれない事情や環境や望みがある。
 
多様というのは簡単だが、じつは、かつて人々が多様という言葉を使っていた以上に、個々の生活事情や環境、求めるQOL(人間の生活の質)は個別化し、変わってきている。

たとえば、高度成長期、子どもの数はあれほど多かったし、若い世帯者数も多く、基本を三種の神器とはしていても、求める生活の質も、じつは多様だった。だが、ある一定のカテゴリーの中にその多様性を分けることができた。つまり、くくりわけることができたのだ。
 
高度成長から消費社会へと到達する過程において、その程度のことで、社会は個を見失わないですんでいた。

だが、成熟した社会から現在に至る過程で、人々の生活は果てしなくカスタマイズされてしまった。iphonが人々の心を世界的にもつかんでいるのは、それがどこよりもカスタマイズに対応しているからだ。

だれひとり、同じツールを同じようには使っていない。同じプラットフォームにいながら、個々は厳密にいえば、隔絶している。
 
隔絶しながら、同じプラットフォームにいることで、孤独、孤立を感じない。本来の自由とはそういわないが、いわば、それが求める自由さであると感じられる…
 
実は、カスタマイズとはそういうことなのだ。
そのカスタマイズされてしまった社会に、政治も地域も組織も集団も、もっといえば、個人すらもまだついていけていない。そこに野放図な世界が広がっていく。野放図な世界とは共有できる倫理、エトスのない世界だ。

当然ながら、個々がそれぞれのカスタマイズに没頭すれば、そこでの自分だけの倫理や常識がつくられていく。かりに他とカスタマイズを共有するにせよ、それを共有するための自分たちだけに通じる倫理や常識がつくられる。
 
だが、それはいわゆる社会倫理や常識と整合性を持たなければいけないものではない。いや、持てない。なぜなら、そもそもカスタマイズとは社会性から撤退することだからだ。でなくては、カスタマイズにならない。

この社会の現実、いわば、当り前に登場している明確な表象を政治家は見抜けていない。官僚も理解していても、わかってはいない。そして、生活者自身、カスタマイズを生きながら、その自覚がない。
 
そこにいろいろな社会の問題が噴出する。

みんなと同じでなくてはという同調圧力も、カスタマイズが進むほどに皮肉にも圧力は高くなるのだ。
 
個の時代にありながら、個を抹消する。その時代のアジアの片隅で、なにができるのか…震災後、失われた地域共同体やインフラを含め、他者とつながるいろいろなツールを再構築しなければならない東北には、だが、これを考える機会が生まれている。
 
それをここでみんなで考えよう。