秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

不遜の極み

人はその日、そのときどき、あるいは、瞬間瞬間でいろいろな気持ちをいだく。
 
そして、世の中には、その気持ちをいだくだけの人とその気持ちをいだいてしまう自分をみつめる人とがいる。あるいは、そうした気持ちを抱かないように人とのふれあいや葛藤を最初から避ける人がいる。
 
簡単にいえば、何かの気持ちを抱いて、キレたり、怒ったり、投げやりになったり、悲しんだり、人を恨んだり、責めたり、図に乗ったり、いい気になって終わる人と…
 
そうした感情に出会わないように人との深いつながりやそのための行動を避ける人と…
 
キレてしまった自分。投げやりになっている自分。悲しんでいる自分。人を恨み、責めている自分。図に乗り、調子に乗っていい気になっている自分といったものを、そうした気持ちが沸いたとき、それでいいのかと考える人だ。

最後のタイプの人は、それでいいのか…と考えることで、自分の中にある、いろいろな自分、つまり自分の本性の醜さ、弱さ、ずる賢さ、もっといえば、そうさせている過去の傷をも知ることができる。

だが、そのためには、自分の感情を直情的に出すのではなく、いや、ちょっと待てよと自分で自分を振り返る力がいる。仮に、出したとしても、あとで振り返ることのできるもう一人の自分がいなくてはならない。つまり、苦悩できる自分であることだ。

 
もちろん、いろいろな感情を感情のままに投げ出す人の中にも、ときには、あれ…といった自責や後悔の思いがめぐるだろう。自分をみつめる感情に出会うのをためらう人は、逆にそれができない深い傷を心にかかえているのかもしれない。

だが、その両方ともが、苦悩する自分というものから逃避しようとしている。逃避するしかない状態であるということは、それが続く限り、自分自身が自分から自由になれていないということだ。中には、その心の葛藤に耐えられず、自傷やひきこもり、あるいは他者を傷つけ、逆に、自死を選択する場合もある。

そうした人は、自分自身で自分を制御したり、振り返ることのできない場合、社会的な人のつながりの中でそれを援助してもらうこともできるが、それには、よほど信頼関係にある人がたえず近くにいないと難しい。

何をいおうとしてるのか。このブログを継続して読んでいる人の中には、すでに気づいている人がいるかもしれない。じつは、最近、幾度か登場している言葉。PTG(Posttraumatic Growth)。PTSD(心的外傷後ストレス障害)を乗り越えるために有効とされ、近年急速に注目を集めているメンタルケアの言葉だ。

苦悩する自分であることを避けない。そして、それを新たな「気づき」へと脱皮させ、縛られていた自分から自己を開放し、自由にさせる…結果、いままでより強い自己へと成長させる…。おおまかにいえば、そのためのアクションプログラムのことだ。
 
じつは、ある事情でPTGを知ってから、ますます、演劇も映画も、おそらくは文学や美術といったアートも、基本は、このPTGのひとつの形体だと思っている。
 
制作する側で舞台や映画を長くやっている人はわかるだろう。現場でそれにかかわる人の多くが幼少年期から思春期、青年期にかけて、学校や家庭での問題があったり、親子、対人関係に悩んだり、社会的な問題や生活苦に直面した経験がある。

作品をつくる作家も、そして、それを形象する俳優も、あるいは、それらを支えるスタッフも、苦悩と向き合えず、自分の傷と向かい合えない人は、人を幸せにする作品も、人の心を動かす作品もつくれない。

なぜなら、自分の痛みと弱さ、醜さを知るからこそ、人の痛みを受け入れることができる。それがなければ、痛みを承知の上で、あえて厳しくも、やさしくもなれないからだ。あえて、苦悩と直面させ、そこから気づきを持たせ、次へと進めることができないからだ。
 
そしてなによりも、それができていない中で、心の傷を持つ人々とふれあい、その作品をさもわかったようにつくることは不遜の極みだからだ。