秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

そして父になる

人というのは、なんとない予見や予感、それがより高じて、期待や不安といったものを抱くようにできている。これは人だからだけではない。あらゆるいのちに共通するものだ。
 
なぜながら、自分のいのちを守らなくてはいけないからだ。同時に、期待=欲をもたなければ、生き延びることができない。それが、種の本能だ。
 
しかし、大方、この予見や予感、いわば、先を察知する力や欲の表現というのは、まだ未成熟な子どもの方が豊か。先を察知するのを言葉ではなく、じつに動物的にやる。欲の表現も過剰になれない。その欲は大人に要求してもいいものかどうかなのか気配を伺いながらやる。もっといえば、本能的にといってもいいだろう。
 
これも当然だ。未成熟だからこそ、生命を維持し続けるために、状況はどうなって、この先、どうなるかに敏感にならざるえない。身を守る術が大人より弱いからだ。だから、言葉や理屈ではなく、生理的にそれをやる。それが極めて動物的、本能的という理由。
 
実は、俳優という仕事に求められるのは、この感覚だ。言葉や理屈ではなく、人間の生理がそうさせる。それができるかできないか。そこが芝居のうまい下手を決めるといっていい。
 
ある程度年齢がいくと、どうしても人は言葉と理屈で状況を把握し、理解し、その延長にこれからと次を考える。だが、強く言葉が介在する分だけ、言葉という壁、もっといえば、文字という壁を乗り越えて、飛躍できない。
 
そもそも、いちいち言葉と理屈で説明ができるなら、芝居をやる意味がない。芝居は説明するのではない。感じさせるのだ。

そのため、大人の方が説明的で、意外性のない、つまならい芝居をすることが多い。いわゆる、自分の言葉と理屈でつくる余計な芝居(余剰・過剰な芝居)をする。
 
たとえば、ト書きに<思わず手をつき>という文字があったとする。すると、つまならない俳優は、思わず、手をついた、その動機や要因をさぐり、それが伝わる芝居をやろうとする。

そうではない。

その人は、思わず手をついたのであって、動機や要因があってもそれを説明するためにそうしたのではない。まさに、思わずそしたのだ。だから、観客からみたときに、伝えるべきは、思わずそうしたと形で見せることの方が先になくてはならない。
 
これを言葉や文字が十分ではない未成熟な子どもがやるとどうだろう。いちいち、動機や要因を説明する動作はどうかとは考えない。というより、考えられない。理屈が組立てられないからだ。あるいは未熟な組み立てしかできないからだ。
 
だから、まさに、思わずというその一点だけをやるしかない。私が形からつくれと絶えず大人の俳優にいうのは、そのためだ。

幼児や小学生、中学生をつかうことの多い監督や演出で、その人がまともな監督や演出だったらわかると思う。やたらにトレーニングされている子どもの俳優はつまらない。
 
背伸びさせられた、大人地味た芝居を覚えさせられているからだ。つまり、言葉と文字を理解させる訓練を事務所がやっている。

あるとき撮影現場でこんなことがあった。母親がそれという自覚がないまま、ストレスから子どもにきつくあたっている。そのときも、子どもを強く叱る。断っておくが、これは芝居だ。
ところが、その息子役の5歳の少年は、そのとき、思わず、おしっこをしてしまった。
 
こわかったのだ。子どもだから芝居と現実の区別がつかないということもあっただろう。しかし、なによりも、その子の芝居はすべてを通じて、じつに自然でうまかったことだ。同じ年齢の少年でも、大人につまらない知恵をつけられていると、そうしたことは起きない。

おしっこをしたからいいのではない。そうした感覚で現場にいることが大事なのだ。

この映画は、すぐれた作品であるというだけでなく、いま俳優である人にとってもだが、それ以上に、これから俳優を目指す人、目指している人にはぜひ見てもらいたい作品。
 
強烈でも鮮烈でもない。いま流行りの人の死をネタにして悲しみをそそってもいない。ケレン味のある俳優やアイドルタレントを並べてもいない。だが、確かに人を描き、また、著名な出演者も、かつ無名の子役たちも監督が求めている生理を見事に表現している。表現できるところまで監督がつっこんでいる。
 
一見家族劇のようだが、いまの社会、もっといえば世界の課題もしっかり背後に描かれている。カンヌでスタンディグオベーションがやまなかったのは当然。
 
見れば、自分の親のこと、自分が子どもだったときのこと、そして、親である人は自分自身のこと、子どものこと、いまのこの国の人々の生き方はこれでいいのかが自然と脳裏をよぎり、心に静かに涙がにじむ。

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