秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

名もなく貧しく美しく

人には人それぞれに思惑や願いがある。思惑がなければ、願いも生れない。また、その願いを実現しようとすれば、思惑が生まれる。
 
だが、思惑というものは、その思いのあり方、思いの持ち方加減が難しい。ちょっと油断すれば、自分の中にある自己中心の考えをそれとは気づかずに、願いを実現するための当然の思惑なのだと錯覚を起す。
 
果ては、自己中心の考えをそれとわからず、人からみていると自己中心で何が悪いといった言動にみえるようになっていくのだ。
 
決して抱いている願いは人迷惑なものでも、自己中心のことではなく、利他なものであっても、前提にある思惑が歪んでしまっているから、いずれ、人々に伝えるべき願いが見えなくなり、歪んだ思惑ばかりが人の鼻につくようになる。
 
だから、思惑というのは、さじ加減が難しい。だから、わがままで身勝手になる自分に対する克己心がいる。

それがないと、願いが実現へ向かうほどに、人に対して横柄になり、場合によって、意に沿わない、つまり、自分の身勝手な願いに叶わないもの、従わないものを全否定して、居心地のいい仲間の狭い世界に居座るようになる。

すべてがそうだとはいわないが、人のためとか、社会のためとか、地域のためとかいった美しい言葉や行動の裏側で、人間としてどうかと思うような他者への差別や排除、乱暴な言動を平気でやる人間もいるのだ。

人はそうした裏側が見えないと思っている。確かに、この世の中、表の顔、表の言動の表層だけを見て、人や集団を評価してしまう。だが、どうせわからないのだから、いいのだとあぐらをかいていると、きっと大きな落とし穴にはまってしまう。
 
付き合いや関係が濃密になり、長期になっていけば、そうした裏側の一面を察知し、なんとなく、人や仲間が遠のく。つまり、信頼の基本を失ってしまう。そしてなによりも、そうやって歪んだ思惑ばかりでいきていると、きっと自分が悲しいだろう。
 
悲しいよりも、きっと苦しくなる。なんでこんなに苦しいのだろうとその理由も判然としないままに。それはそうだ。歪んだ思惑を持ち始めると、果てしなく次の歪んだ思惑を持ち続けなくてはいけなくなる。
 
ある意味、一度ウソをついてしまうと、どんどんその上書きをしていかないとウソがばれるという不安が生まれるからだ。

多少のウソはいいだろう。また他のためにあえてつくウソもある。だが、その人の信頼性にかかわるウソは、周囲ばかりではなく、いま自分を信頼してくれている人を悲しませることになる。
 
この国には、どうしてこうも、本物ではない、建前の正しさや表層の美しさ、立派さばかりを求める人が多いのだろう。名を売りたいだけの人や富を得たいだけの人。そうした人たちが、土や泥にまみれながら、本物の利他を生きている人たちの道を消している。ふさいでいる。
 
1961年につくられた、「名もなく、貧しく、美しく」(主演高峰秀子小林桂樹)という映画があった。実話に基づいてつくられた聾唖の夫婦の幼少期からの苛酷な人生の話だ。ラストシーンも決してハッピーエンドではない。だが、力強い。

こうした映画を共有できていたこの国の人といまの人は明らかに違う。違うから、この国からなかなか本物がどの分野でも登場しない。
ここには、名を売るためでもなく、ただ富をえるためでもなく、少しでも地域を取り戻そう。そのために、日々を費やす人たちがいる。
 
 
写真は、菓子白石さん。もともと斜陽にあった、いわき湯本の温泉街。震災と風評で客足が少なくなった。家と本店になっていた店は耐震の危険で取り壊しとなり、合わせて、これまで歴史的なものだからと保管管理していた、地元の有名映画館だった三函座も耐震不安から取り壊すことになった。

それでも自慢のかりんとう饅頭を買いに来る常連客や新規の客が絶えない。淡々と普段通りに…。思いをこめ、引き継いできた思惑は、ここではまだ通じている。
 
イメージ 1