秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

18年ぶりの再会は…

夜、18年ぶりに、連絡をくれた元劇団員Iの出演芝居を観劇。
 
俳優としての復帰は、20年ぶり。50歳になった男が、再び舞台に立つ。
 
芝居は、別役実、つかこうへいの物真似芝居。あの時代、小劇場演劇をやっていた人間からすれば、すぐにそれとわかるアイロニーパラドックス。いまや、それらは決して目新しいものではないし、ありふれている。
 
だが、それを知らない人間には、新鮮で笑える芝居だったらしい。満席で、笑いも起きていた。
 
芝居がハネて、Iを下北沢の「高むら」に誘う。閉店時間を過ぎるまで、20年近い音信不通を埋めるように語り合う。奴もオレも、実によく、昔の劇団時代のことをよく覚えている。それは、当時、劇団にかかわりあったすべての人間に共通のものだろう。
 
ふと、Iが、当時、オレが役者に言い続けていたことを語り出した。「役者として、志を高く持て」。いまもそうだが、当時から言い続けてきた言葉。時代に迎合しない気力も、周囲の情報に踊らされ、軽薄な芝居をやらないためにも、一番必要なのは、志。
 
つまり、自分がどういう人生を、どういう役者を生きようとするのか。そのビジョンを持ち、見失うなわないこと。
 
チャラくやってしまえば、芝居など、いくらでもチャラくやれる。一時の笑いやウケ、ノリで、満足することもできる。だが、一生舞台で生きていきたいなら、俳優として人生をまっとうしたいなら、自分に厳しく、志を高く持て。
 
それは、いまもオレが秀嶋組に縁ある俳優陣に語り続けていることだ。
 
人も、俳優も、自分を安売りしようと思えば、いくらでもできる。一度、安売りしてしまえば、それでいいと志を忘れ、ますます安値が安くなる。人は、それほど簡単に、安きに流れる生き物。
 
50歳という歳になって、当時、オレが俳優に願ったこと、なぜあそこまで厳しく俳優を鍛えたのか。Iには、その意味がわかり始めたらしい。厳しい稽古や罵詈雑言、毒舌で鍛えたのは、強い自信と深い思いを芝居に持ってほしかったからだ。
 
それは、だが、孤独と隣り合わせ。芝居への思い、俳優としての自信。それを自分のものにするために、毎日を生き、人生の目標に真摯に向き合えば、日々の緊張感もなく、こうありたいという人生の願い、思いを抱いていない人間とは、深く結び合えない。
 
理解されない思いや願いを抱きながら、だが、人に何事かを伝える表現者として生きる。それは、どうしようもなく、孤独な葛藤だ。だから、多くの人は、疲れ、面倒になり、いいじゃないかと、まっすぐ伸ばした背筋を丸める。志を捨てる。
 
そして、言い訳をするように、ありふれた生活、ありふれた幸せでいいのだと、実に失礼なことを口にする。
 
ありふれた幸せを求めるのはいけないことではない。だが、ありふれた幸せほど、手に入れることが難しいものはないのだ。芝居も平凡な生活も同じ。実は、当たり前さに満ちている。日々の身体的鍛錬を地味に、当たり前に繰り返し続ける、そんな単純なことの積み重ねにしか、志を高く持ち上げる力はない。
 
当たり前に芝居と向き合う。当たり前に人と向き合う。その中で、当たり前の幸せとは何かを学ぶ…。
 
ありふれた幸せを求める多くの人が、その大変さに気づいていない。
 
50歳で舞台に立った男との、18年ぶりの再会が、そんなことをふと思い起こさせる…。