秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

険しい道

26年ぶりに俳優に復帰すると公演案内の便りをもらったIに連絡する。
 
20年ぶりの会話。だが、声の調子やオレへの受け答えは、まったく昔のまま。電話の向こうで、直立不動している奴の姿が眼に浮び、思わず互いに笑う
 
高校の演劇部の後輩で、いまや日本を代表する大御所舞台照明家のYも、久しぶりに会うというのだが、一度、先輩後輩の関係になってしまうと、いくつになっても、その上下関係は変らない。いまYに気楽に仕事など頼めないのに、オレは、無謀なギャラで平気でやってくれよと押し付ける(爆)。
 
ある後輩が、冗談で、いった。「本当に、ふざけてる。いくつになっても、先輩に会うと先輩は先輩のまま。なんで、こんなに遠慮しなくちゃいけないんだ?」。その言葉に、オレは大笑いしてしまった。
 
Iは、その後輩どころか、劇団員だったのだから、へりくだってしまう姿勢はその数倍のもの。それくらい、後輩にも、劇団員にも、オレは芝居では厳しかった。それでいながら、金がないのに、酒やメシを食わせていた。個人的な悩みの相談にも乗った。
 
とりわけ、Iはそうしたことに恩義を感じるタイプ。
 
Iは、オレと決別した後も小劇場の芝居を続けていたらしい。さすがに、うちの劇団で何度も泣くくらい、最高にシゴカレタ奴だけのことはある。芝居をやめても、オレが教えた日々の肉体訓練だけは、週一で、ひとり続けていたらしい。
 
それには、マジ、驚いた。
 
そして、Iが、やはり、骨の髄まで芝居をやりたいという思いを持っていたのだなと、ふと思う。いろいろな出会いの結果とはいえ、そうでもなければ、26年ぶりに俳優に復帰など、易々とはできない。
 
いまでも同じだが、オレは、俳優に、毎日、四六時中芝居のことを考える日々を生きろという。それができていないのは、本気で芝居をやる気がないからだともいう。
 
その言葉に、自信の持てない奴、気弱な奴、内向的な奴は、「じゃ、私なんか芝居やる資格ありませんから!」と凹んだり、キレたりする
 
だが、凹んだり、キレたりするのは、それだけ、そうありたいという願いの裏返しなのだ。自分で自分が悔しいし、歯がゆい。うまくいかないことが多いから、そこまで本気になれない。自分の行く道を信じきることができない。
 
だれしも、何事かを始めたとき、それだけの決意と思い込みの中で始めるわけではない。人との出会いの結果であったり、なんとなくかっこよさそうだったからとか、人の視線を浴びるのが心地よかったからとか、動機は深くない。
 
だから、人を当てにしてみたり、うまくやれる方法はないかと小賢しい営業のようなことをやってみたり。自分がやるべき芝居以外のことに心を砕く。だが、それでうまくやれるほど、この世界は簡単ではないのだ。
 
それは、舞台や映画の俳優に限らず、美術においても、音楽においても、文学におていもそうだ。稚拙でもいい。愚かしくともいい。だが、自分がやろうとしていることへの熱意やこだわりが、最後の最後にはなくてはいけない。自分が自分を信じなかったら、いったい、誰が、自分を信じてくれるのだ。
 
自分を心から愛せない奴が、人を愛せないように―
 
人の心を動かすのは、見た目のきれいさや表向きの丁寧な言葉ではない。そいつが心底、その仕事、その表現を愛し、人の心に届けたいとどれだけ思っているかしかない。
 
自分に都合よく、自分をかばい、歪曲し、なおざりな毎日を生きるくらいなら、そのことに真摯である方が自分自身も心地よいはずだ。
 
それが険しい道であったとしても…。