秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

美の一本

人は根源的な欲求として、美を求める。
 
だが、美といっても決して一応ではない。逆に、類型的で無個性な美は、どこか普遍的であるように思えて、じつは、まったく美からは遠い。
 
美しさの概念には、つねに、類型がつきまとう。
 
だが、本当に人の心を打つ美しさというのは、じつは、そうした類型から遠いものだ。整合性や均一性、均等性といったものの基準からズレている。その微妙なズレの中に、人々が求める美がある。美=おもしろきがある。
 
これは人の顔やスタイルを含め、あらゆる美的作品といわれるのものを分析し、実際に統計データもとられて実証されている。すると、いわゆる美とされるものが、すべからく、均等ではなく、非対称性やバランス否定をギリギリのところまで追い込んでいるものだということがわかってきた。
 
簡単にいえば、椅子があったとして、その足のひとつが欠損しながら、ギリギリのバランスで立っている、そのある意味、不具合さに、多くの人は異形の美しさを見出すということだ。
 
あるいは、書道における文字のバランスの美しさも、じつは微妙に類型、中心軸や決まりからはずれている。
 
やり過ぎても倒れるし、ズレ過ぎても悪筆になる。その手前のところで、独特のバランスをとることで、美を勝ち取っている。
 
世阿弥が幼少から若年、そして、中年、老年となる中で、折々に咲かせられる花がある、いわゆる「時分の花」と断言できるのは、そのときどきに造形できる、独特の美のバランス、若さの美を失っていく中で、微妙なバランスでこそみせられる、刹那の美しさがあることを知っていたからだ。
 
類型的な美しさを排して、その折々の独特の美を生きよ。世阿弥のそれを私は、一本の切り花たれと教えてきた。
 
自然界にあるままの美ではなく、切り花という自然を意図して切り取った、異形の切り花…その非自然の姿が逆に、自然界の美しさを雄弁に伝え、実際の自然界よりも圧倒的で、象徴的に美の実感とあるべき姿を伝える。

本道を求めながら、そのために、非自然とズレを意図して生きる…それが、常識的でつまらない美しさではない、真の花を出現させるのだ。
 
一昨日、深夜まで編集をして、またも不眠症状態となってしまった。テレビをつけると、全日本女子剣道選手権大会で2連覇を目指す、山本真理子のドキュメンタリーを再放送していた。
 
無心で勝ち取った全日本一位の実績が圧力となり、自由にのびやかに先がとれない。先とは、対戦相手の喉仏に自分の剣の切っ先を合わせて、相手の中心軸をとることだ。それがいわゆる剣先のせめぎ合いになる。軸をとられると、容易に相手に打ち込むことはできない。

先をとれないということは、受けに回り、踏み込みが甘くなる。当然、隙ができ、相手に先をとられ、敗北する。

中心軸をとるためには、微妙に意図して剣先を中心軸からズラし、非対称性を組み込んでいかなくてはいけない。つまり、それだけ自由でなければ、先はとれない。
 
剣道における一本の美しさは、ただ正眼に構えた美しさから生み出されるのはないのだ。ズレと非対称をも取り込みながら、いわば、常識ではないものも取り込みながら、ギリギリ追い込んだ中で、最後は美しい一本になる。

それは、自然界にあった花が一本の切り花となることで、逆に、あるべき美、常識を超えてこそ、見ることのできる美を示す一瞬なのだ。