秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ストバリのメシア

昨夜、NHKスペシャルの「ストラディバリウスの謎」を深夜再放送していた。音楽に興味のある子どもなら、小学生時代にこの名前は聞いたことがあるはず。
 
制作者の名は、アントニオ・ストラディバリ。その彼がつくるヴァイオリンをストラディバリウスと総称する。略して、ストバリ。16世紀後半から17世紀初めにかけて制作し、長寿を全うしたが、その後、息子が相次いで亡くなり、技術の継承、伝承がなされなかった。
 
世界中の制作者がストバリの音に魅せられ、なんとかその音色に近づこうと奮戦した歴史といまなお続く挑戦を丁寧に取材したいい番組だった。

私も日本人で世界的な評価を得ているヴァイオリン製作者の方と面識があることもあって、その苦労の一旦をのぞいたような気持ちにさせられた。

その方とヴァイオリン製作の話をしたとき、伝承や継承はどうするのかと尋ねと、「秀嶋くん。結局は、伝えるなんてできるもんじゃないんだよ」とため息をつくようなニュアンスでいわれたのを覚えている。
 
なるほど。それが職人の技というものなのかもしれない。
 
言葉や行程作業の中でいくらその技術を模倣してみたところで、微妙な皮膚感覚や材質の音の聞き分けまでは伝えられない。自ら模索し、苦しみ、工夫し、身体化できるまで自分を追い込む以外道はないのだろう。

いまでは科学技術の進展で木工楽器の製造技術はストバリの時代よりはるかにすぐれている。一流演奏家の中には、ストバリの音は好まないという人もいるのだ。その意味で、今般の番組はちょっと極端にストバリ礼さんになっているきらいがあった。

それを証明するように、アメリカで行われた実験では、プロの音楽評論家や演奏家が集まって、現代のヴァイオリンとストバリを聞き分けても、それとわかる人は2割~5割。つまり、その道のプロですら、半数以上が聞き分けることができない。

しかし、それでも演奏家がストバリに魅了されるのは、聞いている側以上に演奏している側がその音の違いを実感しているからだ。

また、音響分析をしてみると、音の志向性がストバリにはあることがわかった。つまり、やはり、音そのもの、音の届き方が現代のそれとは異なっている。だが、その謎も現代技術の中でかなりの部分が解明されつつあるらしい。
 
そして、思った。単なるひとりの職人の業績が300年に亙り伝えられ、いつかそれが神話になる。そこには、楽器の素晴らしさもあっただろうが、同時に、ストバリという楽器にまつわる人間ドラマの部分も大きかったのではないだろうか。

これが息子たちに継承され、クレモナの街でも地域の伝統工芸のように保護され、育まれ続けられていたら、状況はもう少し違っていたに違いない。
 
ストバリの最晩年の名器にメシアと名前のつけられたヴァイオリンがある。
 
一代で偉業を果たし、音楽、ヴァイオリンの世界に揺るぎない金字塔とその後、ストバリを手本として道を求める人々が続いた。
 
それは、まさに、メシア、キリストが自ら死を受け入れることで、永遠を勝ち得た姿とどこか似ている。
 
私は俳優に、口ぐせのように、オーケストラの楽器たれ、室内楽の楽器たれという。
 
俳優という仕事は複数の俳優とアンサンブルを構成する楽器のひとつ。そこには、求められる楽器の音質、個性、そして技術がある。それをみつけ、生きよということだ。

音楽のわからない人は、監督にも、脚本家にも、演出家にも向いていない。そして、それ以上に、音楽を身体化できない人は俳優には向いていない。
 
技術者も演奏者も、すべてに必要なのは身体化。それができたとき、メシアが降りてくる。