秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

自分の生きる道

弱音や愚痴は、聞きたくない。そう思うのが当然だ。ある意味、自己愛としか見えない場合もあるし、周囲に同情を求めているとしてしか見えないことも少なくない。
 
震災後、縁を持たせてもらった、多くの人たちが、心の傷や多くの困難を抱えてながら、弱音や愚痴よりも、空元気でも、笑顔であったり、冗談を飛ばしたり、のう天気でいようとしている姿を見れば、ますますそう感じる…
 
と思っていたが、その無邪気さと陽気さが、抱えきれないほどのつらさや悲しみ、ぶつけたい弱音や愚痴を封じ込めるためにあると知った。
 
これは、かつて仕事で、ホスピスの取材をしたときにも感じたことだ。
 
ほんとうに悲惨を前にすると、人は、簡単に弱音や愚痴はいえなくなるものだ。悲しみとつらさ、それだけでは言い表せない重く、暗いもので、言葉はすぐに出てこない。
言葉にかわって出てくるのは、涙か、涙さえなく、表情を消し去ることくらいだ。

だが、また同時に、あからさまに、それを表に出さないと、いまの自分を保てないという人もいた。しかし、そのあからさまな人間の姿を目にして…どんな苦境にあっても、誠実であろうとする人が、人の貪欲さに心を痛め、心が砕けた人も少なくない。
 
おそらく、人は、その両方を受け止めなくてはいけないのだ。受けとめられるられないの違いはあっても。それが人の真実であり、人の世の現実だから。

しかし、ほんとうに大事なのは、受け止める受けとめないではない。自分がどう生きるか…それに尽きる。人がどうあれ、人の世の現実がどのようにささくれていようが、理不尽であろうが、自分が生きる道を歩む、自分のいのちを燃やす…そこにしか、人の世の悲しさを受け止める術はないのかもしれない。

ここには、悲惨の現実を前に、いろいろに心揺らぎながら、しかし、やはり、自分の生きる道をていねいに、生きると覚悟した福島の人々の姿がある。
 
 
写真は、二本松の菓子処まつもとの松本さん一家。悲しいことに地元の人よりも、遠方のお客さんの方が、お取り寄せや首都圏の出店で買ってくれる。線量が高いといわれた地域では、そうした不条理がいまも続いている。だが、それでも、松本さんは、新作の菓子づくりをやめない。小さな店に30種類以上の季節の菓子がならぶ。
 
季節はこれからだが、ここのゆべし、絶品! オレの近所のおばさんたちが知らないうちにお取り寄せしていたw
 
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