秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

現実への関与

華やかさというのは、人の気持を明るくする。陽気にする。元気にもするだろう。
 
にぎわいは、人の心をわくわくさせ、一瞬いろいろな苦しみや困難の現実を忘れさせるだろう。

だが、本当に人の気持を明るくさせ、陽気にさせ、元気にし、あるいは、人の心をわくわくさせ、日々のつらさやさびしさや孤独をいやしてくれるのは、その現実の重さの少しを共に考え、抱え、歩いてくれる存在だと思う。
 
華やかさとにぎわいは、じつはずっとは続かない。いわゆる、ハレ(非日常)の時間と空間の中にある。ケ(日常)を一瞬、あるいは、しばらくの間、ゆるめてくれる時空ではあっても、それが日々をつくってくれるわけでも、日々そのものであるわけではない。

また、現実の重みやつらさを遠ざけ、ごまかすために、ハレがあるわけでもない。
 
傷つくことが当たり前の日常の中で、さびしさやくやしさが当たり前の毎日の中で、それを乗り越える力を与えてくれうるものでなくてはいけない。

この世の祭事も、なにかの催事も、なんとかイベントとか、なんとかフェアとかいうものも、すべてその分をわきまえて、なくてはいけないと思う。

現実にアクセスできない、それらは、ただの華やかさとにぎわいの集まりに過ぎない。祭事や催事、なんとか〇〇をやることで、現実にアクセスしていると思っていたら、それは大きな過ちだし、不遜なことだ。

これは、なんとかプロジェクトとか、なんとか事業というものも同じ。
 
SNSなどITネットワークでも、それが現実に関与し、現実を補完し、つながるものでなければ、ただの排他的、孤衆の集まりに過ぎないのだ。

いま、震災から3年半以上が経過し、祭事や催事、なんとかイベントとか、なんとかプロジェクトに、切実さがない。やるべき取り組みが現実に関与せず、やっている側だけの満足や実績主義に陥っている。

被災地に限らない。いま必要なのは、困難の中にある人たち、いろいろな思いを抱えているだれかの伴走者として、そこにあるという現実への関与だ。