秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

作法とふるまいを変える

人になにかを期待され、それに応えなくてはいけないとき。あるいは、期待はされていなくても、自分の生活や夢のために、なにかをつかみとらなくてはいけないとき。
 
人は平時にあっては、大方、臆病にもなる。また、平時にあるからこそ、その貴重なチャンスが実感できず、つかみとる努力を忘れる。
 
かといって、ただ、がむしゃらにやればいいのでもなく、がむしゃらが高じて、頑なになるともっと始末が悪い。自分の勝手な思い込みで、勝手な道を歩いてしまう。だが、そこに計算が働けば、それどころか、人として地に落ちる。
 
そもそも、人にほんとうに、なにかを期待されているとき、期待しているよとか、やれるよとか、耳心地のいい言葉を投げかけられることは、まずない。かりに始めはあったとしても、ほんとうの期待になるほどに、投げかけられる言葉は厳しくなるものだ。
 
それに叶う、見合う人間であってほしいと相手が強く願えば、耳心地のいい言葉では、そこへたどりつかせることができないことはわかっている。

与えられた期待を実現するために、期限を切られることもあるし、心を奪われている別の案件を捨てることを要求もされる。なぜながら、平時にあっては、それができないからだ。
 
いままでとは違う時間、これまでとは異なる思考、そして、それまでやってこなかった取り組みといったものを新たに始めなくては、ステージを変えることはできない。それは、ある意味、非常時、平時ではない時間と心を生きよということでもあるからだ。

それでいて、頑なで、ひとりよがりであってはならない。しかし、いつもと同じ生活、いつもと同じ日常の中では、その道を進むことは概して難しい。ある意味、安直に生きようと思えば生きられるのが、日常というものだからだ。

世阿弥が形から変えよ。というのは、こうした意志と決意だけでは壊すことが容易ではない、日常の持つ壁を唯一、壊しやすくするひとつの作法であり、ふるまいのあり方をいっている。それがひいては、心を変えてくれるという確信があったからだ。

ここには、震災という悲惨、原発事故による放射能汚染、その風評という、突然の非日常の中で、これまでの作法とふるまいを形から変えてみようと取り組んでいる人たちの姿がある。
 
 
 
写真は、久ノ浜で被災し、親族を亡くされ、高齢な父と透析の必要な病気を抱えた母の世話をしながら、震災後2ヵ月ほどで店を再開した、いわき市の翠月園の店主、志田和由貴さん。震災後の苦労から、2年ほどで高齢のご両親は亡くなられた。人生感が変わりました…だれを恨むでもなく、それが人生というものだと諦観した先に、予想もしなかった店の大繁盛があった…いまも被災を免れた久ノ浜の家から平の店まで通っている。
 
ここの中華、以前紹介した荒川くんが紹介してくれた。量も多いが、じつにうまい!
 
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