秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

人には大事なものがある

人には、大事なものがある。
 
それは、家族、兄弟姉妹であったり、恋人であったり、仕事であったり、友人や仲間であったり、あるいは、お金や物といった、即物的ではあるが、生きるために、将来の生活のために大事な眼に見えるものであったりする。
 
だが、人には、そうしたものを越えてでも、求めている、じつは大事なものがあるのではないだろうか。
 
家族にせよ、兄弟姉妹にせよ、同僚や友人や仲間が大事なのはわかる。そして、そこには、即物的で物理的で、打算という目に見えるものではない、大事なものがある。しかし、よくよく考えれば、それは、自分という人間の生活の枠の中での大事さに過ぎないともいえるのだ。
 
では、仕事はどうか。それは生活していくためにも大事なものに違いない。自分の将来をつくっていく上でも重要だ。さらには、社会的なかかわりの中で、自分の人生を充実したものにするためにも大事なものに違いない。
 
しかし、じつはそれも、よくよく考えれば、自分の生活と自分の将来という、自分を基点としたものに過ぎない。
 
金や物といった即物的なものがなければ、人は生きていけない。過剰であるかどうか、余剰であるかどうかは別にして、自分の人生を生きるために、それを大事に思うことはいけないことではない。
 
しかし、じつはそれも、よく考えてみれば、これで満足というのはじつはない。これで安心というのも、じつはない。金や物があれば、うまくいくことはたくさんある。だが、そのことによって、人生のすべてが解決できるわけでも、すべての不安が解消されるわけでもない。

人が生きるということは、それがどのような生き方であれ、そこには、いろいろに不安があり、不満があり、課題があり、問題がある。それが普通だ。自分は幸せで、何の問題もないといはいいながら、だれもがじつは、なにか、どこか満たされないものを持って生きている。
 
だから、人は、家族だけでなく、仕事の仲間だけでなく、人を、出会いを必要とするのだ。人との出会い、人を通じて、新しい物事との出会いを求め続けるのだ。
 
よく知る人やものではなく、それを越え、寄り添えるものや安心できるもの、信じられるものを探し続けるのだ。

眼にはみえないけれど、大切なもの。それがどこかにあることを人はじつはよく知っている。だから、人は音楽や美術や演劇や映画といったアートを求め、また、肉体の限界に挑戦するスポーツに熱狂する。舞踏などパフォーマンスに共感する。

人には大事なものがある。日常を越えた、どこかにそれを求めたときから、その人は、だが、孤独になるだろう。そして、きっと、孤独の中で初めて、大事なものがなにかに気づくことができるのだろう。