秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

デジャブと喪失

デジャブ現象は、幼少年期から思春期に頻繁に体験した。成長するにつれて、その感覚は希薄になったが、いまでもたまに体験することがある。つい先月、あるパーティで、あれ?と思うデジャブがあった。

フランスの超心理学者エミール・ブワラックが1917年シカゴ大学留学中に発表した、『超心理学の将来』の中で、提唱した既視感のことだ。だれにでもあった、デジャブを現在のような心理学や精神医学と結びつける発端となった。

じつは、超心理学の助けを借りるまでもなく、古典文学や演劇、中世、近世の物語の中には、たくさんのデジャブ現象が登場している。

能楽は、いわばデジャブそのものが作品の基本にあるし、ギリシャ悲劇からシェークスピア演劇まで、セリフのあちこちにデジャブが登場する。詩や韻文にも頻繁に現れている。正しい理解には欠けているが、プルーストはデジャブ体験を『失われた時を求めて』という詩集にまとめた。

予知や予見といった人間のシックスセンスの世界。喪失している記憶や夢の再現。前世や過去世の記憶だとする生まれ変わり説など、いろいろにいわれるが、理性だけでは解決できない感覚が人にあることは、否定できない。

「あ、この場面…前、どこかで見た」「以前、同じ体験をした記憶がある」。そうした一瞬だが、奇異な感覚を抱いた人はきっと少なくないはずだ。

また、初対面なのに、「どこかで会った記憶が確かにある」といった体験も少なくないだろう。多くは、その一瞬で流れていくが、ごくまれに、そうした場、人が自分の人生と深いかかわりを持つという場合もある。

それでいながら、どう考えても、既存体験、記憶が思い当たらない。

デジャブではなくとも、初対面から無条件で心地よい相手、話のはずむ相手というのがある。意図して、会話を合わせようとか、気をつかって仲良くあろうとしなくても、あるいは、いいたいことをぶつけあっても、なぜか心が落ち着く、なごむ、そして、会い続けたいと思いる人がいる。

自分自身もだが、世の中のスピードが速くなり、なにかにせっかちに生きていると、もしかしたら、そうしたシックスセンスは鈍感になるのかもしれない。あるいは、その一瞬を人は見逃すようになるのかもしれない。

とりわけ、なにか即物的な欲望ばかりに追い立てたてられるようになると、本来ある人間の五感も、六感も、あるいはもっと多様にあり、潜んでいる能力も人から失われるような気がする。

私たちの社会、私たちの世界は、それではもう限界に来ているかもしれない。人間に備わっていた、自然に近いなにかをしっかりと見直し、問い直し、物質的な成長発展だけが人類の生きる道ではないことに気づくときが迫っているような気がしてならない。

にもかかわらず、世界は、国は、社会は、それとは真逆のことをやり続けている。それはデジャブを見逃し、とても大切な場や人を人々から見失わせるように、世界や国や社会にとって、大切ななにかを見失わせている。