秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

映画のための準備運動

いつ、だれに、なにを学ぶか…それは、人の人生にとって、とても大事なことだ。
 
いつというのは、いくら一流の、すばらしい指導者や経験者、識者、あるいは、すばらしい指導テクニックを持つ人、いわゆる師や先輩という人と出会っても、本人に学ぶ意欲と学ぶ必然性、切実さがなければ、深く浸透していかない。
 
教育というのは、その時、その場で結果がでるものではない。だから、あとで浸透していくことだってある。性急に結果や浸透の深さを測る必要はない。だが、本人の求めと切実さがないと、財産にはなっていかないだろう。
 
だれに…というのは、人に何事かを教えるということの意味をわかっている人でなくては、伝わらないということだ。

人間の可能性や潜在的な能力、人の質や内実といった表には現れてこないものを洞察でき、決めつけや押し付けで何事かを伝えた気になるような人ではよくない。

生半可の知識と経験で何事かを教える人は多い。だが、教えるというのは、ただ、性急に、技術やテクニックを教えることではない。その体系となっているものが何か、そして、なぜそのように体系づけられているのか…その根拠と実際を伝えることなのだ。

ひとつの技術を身につけるにせよ。それが何のための、体系のどこに位置づけられているのか…それがわからなければ、表層をなぞるだけで、これも浸透していかない。つまり、教えるのではでない。伝えるのだ。そして、それを伝わるようにすることなのだ。

教えることは、伝えただけで終わりではない。どう伝わり、実際に伝わったものをどう具体化できているかを批評できなくてはいけない。しかし、これも、体系の中でこそできることで、そうでないものは、個人的な印象でしかない。
 
体系を持っていない人が何事かを教えられないのは、正しい評価でもできないからなのだ。いろいろな人から教えを受けるほどに、もし、教えられる側に迷いと混乱が生まれるとしたら、それはそれらが個人的な印象でしか評価を与えられていないからだ。それは現実において、まったく役に立たない。
 
三つ目のなにを学ぶか…は、いまのだれに…の中に含まれている。ひとつの技術、ひとつの知識、ひとつの情報…それらがどういう世界観の中で必要とされ、かつ、それが現実の中でどのように有効なのかを知ることができるかどうかということだ。

つまり、自分がいま身につけようとしている技術やテクニックが何と結びつき、どのような効果や成果をもたらすか…ということを学ぶということだ。それがより複合的、有機的に連携したとき、ああそうなのかと、体系が見えてくる。そこまでのことを学ぶのが、学びというものだ。
 
そして、最後には、その努力と研鑽がなにかの形にして見える状態にまでならなくてはいけない。学びはひとつの場所で終わるのではない。先へ歩みを進めるためには、モチベーション、評価となる節目がいる。だが、それが手に入れられるかどうかは、この三つの要点を教える側も、教えられる側も深く心に刻むところからしか始まらない。
 
あまり十分な時間はとれない忙しさにあるが、今年の夏は、これを次への映画のための準備運動として始めることにした。参加費無料の集中ワークショップ。一部はUstで公開する。