秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ひとつの基準

世の中には、強く生きることが大事だと考える人がいる。自分のことは自分でやり、自分の道は自分で切り拓く。
 
もちろん。基本にはそれがなくてはいけないと思う。なにかに依存したり、甘えていては、自分の足で確かな道を歩むことはできない。
 
しかし、そんなふうに思え、そうした道を突き進むことができるのは、たまたま、その人が恵まれていたからだ。いままでそうだったといって、これからもその考えだけで人生を歩めるという保証はどこにもない。
 
地域や社会、国、そして世界のことを考えるとき、常に意識しておかなくてはいけないことは、まず、だれもがそうして生きられるわけではない…という現実だ。
 
以前、東映の仕事で、「見えないライン」というタイトルの格差社会の問題を扱った映画をつくった。
 
そのとき、延べ30時間に及ぶ取材をしたことがある。その中で、非正規雇用にされてしまったあるキャリア組のOLの方の話を伺った。
 
婦人系の病気になり、これまでのように過重な仕事ができなくなったとたん、大手上場企業の会社からスポイルされ、身体的なだけでなく、精神的にもひどい傷を負った。
 
その方が取材の中でこういった。
 
「健康で、家庭環境も恵まれ、何の問題もない人であり続けられるという保証はどこにもない。ある日、あるとき、自分自身がいままでの仕事を続けられなくなる…ということもあるかもしれない。また、家族に重篤な病気の人が出て、その看護や介護で、これまでのように仕事がやれなくなるということが起きるかもしれない」
 
「なのに、すべての基準を健康で、家庭環境にも問題なく、どんな仕事もこなせる人に置いて、その基準からはずれてしまう人を受けつけない企業、社会のあり方でいいのだろうか…自分が病気になって初めて、その現実に直面し、そう考えるようになれたのです」

社会のしくみ、それをつくる基準をすべて強い生き方ができこと…に置くと、こうしたことが絶えず起きる。そして、現実に起き続けている。
 
そうではなく、強く生きることが理想であるし、そうあるための努力は必要だが、それができない場合、どのように人々の生活と人権をサポートできるか。そこに基準を置く社会でなくてはいけない。
 
そこに基準を置ける社会は、文化的にも実に高いレベルにある。問題は、それはいまの財政ではできない…ではなく、それを実現するために何をしなくてはいけないかを考えることだ。それを考える力にも文化的なレベルの高さがいる。
 
いま、出生前検査が広がっている。障害のある子ども、遺伝子に欠損のある子どもは生みたくない。その思いが出生前検査の広がりを生んでいる。
 
確かに、障害やなんらかの病気の因子を抱えた子どもを持つ親の苦労は、そうではない親に比べたら大きいかもしれない。だが、それを苦労とするかどうかの基準は、他者にはない。なぜなら、それを喜びに変えて、わが子をいとおしく育てる人たちがたくさんいるからだ。
 
社会に強い人もいれば、弱い人もいる。うまくやる人もいれば、そうはできない不器用な人もいる。それだけではなく、小賢しい人もいれば、ずる賢い人も、邪な奴もいれば、悪をやる奴もいる。
 
その生物多様性の中で、人はこれだけの繁栄を築けたのだ。すべてをひとつの基準、判で押したような均一で、整ったものにし、それが以外を排除する世界で、果たして、人として生きることの尊厳や偉大さ、強靭さを維持していけるものだろうか。

いやそもそも、人とはそのように生きられる生物なのだろうか。

ひとつの基準からこぼれるものを排除する社会…それは決して、人々に幸福の意味と価値を教える社会ではない。