秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

失礼極まりない

人の痛みや苦労というのは、じつは、その当事者でなければわからない。
 
よく、オレの若い頃に比べたら…とか、オレの貧しい子ども時代なんていうのは、そんなもんじゃなかった…とか、あるいは、被災した当事者でなければ…といった言葉を聞く。
 
だが、いつもいうように、その人にとっての痛みや苦労、悲しみというのに、じつは、軽重はない。
 
ある人がからみたら、そんなことで…と思うようなことでも、その当事者にとって、それが支えきれないほとの痛みや苦労と感じてしまうものであれば、それは同じなのだ。個々の生活が異なるように、比較すること自体に意味がない。
 
戦後まもない頃の着るモノや食べるモノにも困り、そんな甘えたことはできなかったという生存にかかわる苦しみとモノがある程度満たされ、食への不安がなくなったとき、人々を襲う、満たされているがゆえの、選択があるがゆえの苦しみや痛みに違いはないということだ。
 
それをただ一つの物差し、多くは先行する世代の物差し、生活の困窮度で比較してしまうところに問題がある。
 
社会学では、そうした時代性の差異として苦しみや痛みをとらえない。生活の困窮度と社会の困窮度、心の困窮度を混同しない。社会等価論として、質や内容の違いはあっても、同じ飢えや苦しみとしてとらえる。
 
そうしなければ、世相や時代の変遷によって、人々の苦しみや痛みの考察の基準がかわり、それを本質的に理解することも、その要因を探ることができないからだ。

従って、昔はよかったとか、あの時代の頃が正しいとか、まして、あの頃を取り戻そうなどと愚かなことはいわない。それは、取り戻せはしないという前提から出発する。
 
いまという時代の不具合や問題があっても、それを異なる時代の感覚や過去の考え方、もっといえば、情緒的ノリで埋めようとはしない。
 
それは、科学的ではないからだ。歴史的にも、そのようなことができた時代もなければ、国もない。
 
時代も、社会も、人も、地域も、国も、変化と変遷、推移と変動、そして、制度変更を前提として今日に至っている。
 
それを前提としていなければ、時代も、社会も、人も、地域も、国も硬直化し、機能不全となり、破たんする。ギリシャ都市国家が、帝政ローマが、植民地支配時代のヨーロッパが、共産主義国家を目指したソビエトが破たんしたように。

この国は、未曾有の東日本大震災という被害を経験した。さらに、原発事故というかってない被害にも直面した。その前から硬直化し、閉塞していた社会制度や構造、システムが、自ら変更できないという壁にぶつかっているときに、偶然、大災害に見舞われた。
 
ある意味、変われないこの国に対して、自然が変われと警告をしてくれたようなものだ。なのに、その教訓をひとつも生かそうとせず、いま、この国は、あの頃はよかった的な過去の繁栄や成長、経済だけを幸せの基軸とした、硬直し老朽した考えへと向かっている。
 
しかも、その硬直した道を投票権を持つ国民の半分程度の人間しか意志表明して選択していない。組織票を持つ団体によってつくられた、わずか半数にも満たない国民の支持によって、この国は硬直した道へ突き進もうとしている。

この国の破たんは眼に見えている。だから、かいしこい若者は多くを期待しないし、行動しない。それでいながら、海外へ挑戦する若い人たちは減っている。
 
東日本大震災という爆弾を落とされてもなにひとつ、本質的な改革ができない国。
それは失われたいのちに対して、失礼極まりない。そう思うのは、オレだけだろうか。