他者のために生きられない世界
温かさと散りゆく紅葉の不思議な季節。
世界中のあらゆる人が、季節のおかしさ、異常を体験しながら、自国の利益や経済発展を優先させる考えから脱却できない。超大国アメリカと第二位の経済大国となた中国は、議定書を批准もしていないし、新しい環境基準づくりに参加しようとはしていない。
開発途上国、南半球の国々は、環境をおかしくしたのは先進国で、お前たちだけが、豊かさを享受するのはおかしいと、ここでも足並みがそろわない。
半径三メートルの幸せが大事で、半径1キロ以上の人々の生活はどうでもいい。地球が3キロほどしかない世界だったら、そんな考えがまかりとおる世界に、オレたちは生きている。
しかし、考え方を変えれば、ITや航空機器、高速鉄道などの進展で、地球は、50年前と比べたら、比較にならないほど、小さくなった。通信機器の発達は、地球の裏側の出来事を一瞬にして、知りえる世界へと変貌させた。
つまり、地球は次第に小さくなり、他国や他者と近接する世界を生きる時代が、とうの昔に到来しているのだ。不思議なことに、それに気づけていないのは、そうした最先端の情報機器や通信、交通を生み出した人間。実に皮肉なものだ。
他者との距離が小さくなればなるほど、他者との関係が濃密になる。
濃密になるからこそ、利害関係もあからさまになるが、同時に、共生しなければならない必然性も濃密になる。利害の対立ばかりでは、狭い地球に一緒に暮らせないからだ。
だが、知恵をしぼりながら、それが理解できない。理由は簡単。いまの豊かさしか生き方の基準にないからだ。豊かさとは何であるかを物やサービスでしか実感できていないからだ。
確かに、人はよき家に住み、よきものを食べ、寒さやひもじさから解放されたい。そうやって、経済の豊かさを基準にして発展してきた。だが、同時に、その過程にあった、分け合う、自然に感謝する、共に生きるという、共同体の美学も失っていった。
次の世代の幸せは考えても、50年、100年先の未来を想定することもなくなった。したとしても、それはいまの豊かさを続けるという発想のもとでしかない。
環境を守ろう、環境を大事にしよう。そういう政治家が相変わらず高級車で永田町を走り、環境を大切にと賛同する市民が、車社会から自由になれない。
世界を変えようという人間たち、あるいはそれに気づいた人間たちが、自ら生活を変えなくして、世界が変わるわけはない。そんな輩のいう、共生社会など、辛酸をなめた、南半球の人々に説得力など持つわけがない。
だが、一番さびしいのは、自分たちがつくった濃密な世界、社会の中で、結局は、きれいごとを唱えるだけで、他者のために生きられない世界、社会だ