秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

逆転への道

生活そのものまで犠牲にして、支援活動をやっていては継続性も持続性も生れない。生活の基盤をしっかり確保した中でこそ、支援事業は意味をなすのだ…
 
といったことをまことしやかに語る人がいる。

実際その通りだ。オレ自身も支援活動への参加や協力を呼びかけるとき、それぞれの生活を犠牲にしてまで、参加してほしいとも、協力してほしいとも思ってはいない。できる範囲で、できることを、それぞれの事情に合わせてやってくれればそれでいい。
 
得意分野があれば、それは有料というのではなく、奉仕として貢献してくれれば、それに越したことはない。そういうがんばりをちょっとやってくれれば、それでいい。そう思う。

だが、復興、再生、新生に、ひとつのビジョンを持ち、それを牽引するリーダーはそれでいいのか…となると、オレはそうは思えない。

そうしたそれぞれの事情で協力してくれているだけでは、届かないところは、牽引するものが負担をかぶるという決意がなくてはいけないと思っている。
 
いつもいうが、被災地はひとつではない。被災した人々の生活もひとつではない。震災復興の特需や助成金にうまく乗っている人もいれば、まったくそうした恩恵を受けていない人たちも少なくない。
 
また、津波原発事故に直面した浜通り原発線量が高く、風評被害をまともに受けている中通り、そして、風評によって農産物以上に観光で大打撃を受け、NHK大河で特定地域で観光が活性化している会津地域でも、それぞれに事情も都合も、求めている支援のあり方も違っている。

だが、みつめるべきは、多くのものを失った人々の現実だ。それは、いのちであり、あるいは家屋であり、生活という日常そのもののだ。これまでとは同じではないという現実だ。そこに説得力のある言葉、力のある言葉を投げかけ、共に行動する発信力は、自己を安全な場所においていて、できるわけがない。

政治家や政治の言葉が、被災地で空々しいのは、その痛みや壊れた日常への理解が乏しいからだ。自身が生活苦や不条理な現実の泥をかぶっていないからだ。自由競争の原理や憲法改正などいっていられるのは、それを知らないからだ。

そしてまた、10年、20年、30年、この国の禍根として残る傷を、いま手当しなければ、新しい地方、地域の姿を生み出す機会がないということを切実に実感していないからだ。地方が活力を戻さない限り、本当の意味で国力の回復などあえりない。
 
つまりは、牽引するリーダーがきちんと方向性と理論を持ち、なにひとつ、自己犠牲を払っていないからだ。

昨日、昼から、いろいろとオレのいまの活動やそのために犠牲になっているオレの生活や家族のことを心配していただいている方が、実状を知りたいと話を聞いてくださった。
 
ありがたいことだと思う。少しでもオレが描いている構想が現実のものとなり、それによって、利益をえるというではなくとも、必要な経費や運営費がまかなえ、かつ、オレが生活を注ぎこまくていい環境になれば…という思いと願いをいただいた。

しかし、やはり、伝えられなかったのは、そのことだった。
 
最後に責任はリーダーがとる。その決意の深さは、普段の常識や通念では理解されない。また、そうした決意を持つ、リーダーが被災地の中でも多くいるとは限らない。

もちろん、算段や勝算がなくてやっているのではない。ある意味、起業しているのと同じなのだ。先行して身を削り、自己犠牲を払わなくてはいけないことが、新しいことであればあるほど、ある。
 
それができるかできないか、理解できるかできないか、行動に移せるか移せないか…苦難や迷いや不安と闘いながら、その道を進むという信念は、表だってみえないし、わかりづらいだろう。
 
場合によっては、敗北するかもしれない。だが、いつもいう。人には負けるとわかっていても、闘わなければいけないときがある。それが、最後には、敗北しても次の道へつながる逆転を生む。

 
現実に、オレの活動やMOVEの活動を通じて人がつながり、連携し、協働し、新しい取り組みを生む活動が生まれている。MOVEというプラットホームで結びつく人たちが出ている。
 
それだけでも、いままでとは違う風が起きている。MOVEが大事なのではない。MOVEがあることで、違う何かが生まれることが大事なのだ。