秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

場と尊厳

昨夜は、MOVEの協働団体として力を貸していただいている、FKP(福島絆プロジェクト)代表で、個人的にいろいろなワークショップを企画実施しているMさんの集まりに参加する。
 
ダイヤモンド社から出版された「なぜ、日本では本物のエリートが育たないのか?」の著者、福原正大さんのミニ講演と意見交換会
 
実は、あまりこうしたサロン的集りには参加しない。だが、どうしてか、数日前、MさんとMOVEとの連携についていろいろと話し合っている夢を見た。

それが気になったのと、おそらく、宮台氏、尾木氏、齋藤氏たちと以前やっていた「生きる力を育む」教育シンポジウムで、オレたちが社会改革、変革のために、教育のあり方を根本から見直す必要がある…と提唱し、いくつかの処方箋を提案していた活動とどこかでつながっているだろうという予測があったからだ。

予想した通り、福原氏の提言は、オレにとって、決して、特質して新しいものではなかった。だが、いま、かつて福原氏のような提言をしていた論壇が、どこかで低調なのと、エコノミストの経験と知識を生かし、経済との絡みでこうしたテーマを論じることのできる人がいなかった過去と現状を考えると、こうした人が新たに登場してきたことはよいことだと思っている。

おかげでというか、久々に同席したFKPの方がMOVEに正式メンバーとして加わりたいと申し出てくださり、かつ、単身、宮城の被災地に乗り込み、人間関係を築き、度々ふるさとに帰るように訪ねている、同じ福岡県出身の方や被災地の市町村行政を隈なく回り、地域の物産情報をネットワークして、EC展開してようとしているベンチャーの若い方と被災地支援についていろいろ話し合うことができた。

Mさんの周囲には、そうした、人のことをほってはおけない…という人がたくさん集まっている。その輪の中に、入れさせてもらったおかげで、MOVEが求めている活動の人材とも出会えることは、この上なくありがたいことだと思う。そうしたねらいと願いが福原氏にあったことも、そうした場をつくった大きな要因だったと思う。

福原氏も提唱していたが、いまほど、「場」を必要としている時代はない。オレがMOVEという活動をシンポジウムや講演形式のものから、実際に人と人がつながり、某かの目的意識を持って人が集う場、団体へと発展させたのも、実は、場の重要性を感じていたからだ。

そして、東日本大震災の被害とその後の復興事業の困難さと遅滞は、この国の場のあり方を全否定した。また、失われた地域共同体の再生という点でもそれは同じだった。どういう新し地域の場を創造するのか…という問いだ。
 
この間の会議で、うちの優秀なメンバーのひとりのAくんが、そもそも震災前から地域共同体は終わり、かつ高齢者依存による第一次産業の疲弊とそれを支える共同体の力は衰弱しており、また、地方の物産や商品が売れないという現実はあったはずだ…云々といった主張をしていた。
 
確かに。その通りだ。だが、彼はそうはいっていないが、だからといって、いまさら、それを再生しようとしても容易なことではない。違う道を探すべきという議論は正しくない。

東日本大震災はやっと、この国の人が拠って立つ場が喪失している…その事実に気づかせてくれたのだ。大衆、消費者、当事者の温度差はあるにせよ、その気づきを持っている人間は少なからずいる。それをどういう人のつながりに再生させ、どういう場であれば、失われていたものを補完し、支え、継承できるのかを考えた方がいい。

そこに必要になるが、いままでとは違うリーダー像、つまり、エリートの登場だ。

オレも若い青年時代、だれか年上がリーダーやエリートが必要だという言葉を聞くとくってかかっていたw 上意下達のシステムなんてバカバカしいと反論した。

だが、エリートという言葉の本来性はそういうことではない。いままでにない市民、生活者のための具体的なビジョンを持て、その実現のために、試行錯誤と自己犠牲を惜しまず取り組める人のことだ。同時に、若い人たち、道を求める人たちのモデルとなる考え方、生き方を身を挺して、見せられる人のことだ。だが、それは、否定の対象となっていもいいし、止揚の対象となってもいい…そういう見切りを自分自身につけられる人のことをいう。
 
多様性と過剰流動性は人々から場を失わせた。それを昭和のように取り戻せなどとはいわない。だが、ささやかでも、だれかが、そうした場の社会的必要性に目覚め、人と人が本来あるべきつながりの現実を深く認識できる場をつくっていかなければ、
おそらく、この国に未来はない。
 
いつもいうが、人は心地よい場をえてこそ、人のため、地域のため、社会のため、そして道や国のためになにかを始めなくては…という思いに立てる。場とはその人を承認し、承認されることで自分という人間の尊厳を感じることができるからだ。

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