秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

人はそこに生きている

人はそこに生き、そこで生活しているのだ…。その当たり前のことをこの国の人々は忘れている。
 
人はそこに生き、そこに生きることに誇りと希望を見出したいのだ…。その思いと願いにこの国の人々は鈍感すぎる。
 
だが、そこに住むことも、暮らすことももうできない…そう諦めるしかない人たちも確かにいる。そこに住むことも、暮らすこともできないが、どんなに時間がかかっても、その場所をいつか取り戻したい…そう願う人たちもいる。

その相克と葛藤は、津波被害を受けた海岸線の市町村、集落や原発事故の警戒区域や避難区域の人々だけのものではない。福島に生きる人々、生きようとしている人々、福島ではない場所に生きざるをえない人々、すべてのものだ。

その中で、福島で土と向き合い、栽培や加工と向かい合い、種や苗、養鶏や畜産、水産に立ち向かっている人たちがいる。親や家族のために、地域を守るために、日々、そこでの仕事にのぞむ人たちがいる。

もちろん、そうした自主自立の気構えと気概を持ち、前向きに生きようとしない人たちもいる。
 
復興予算や補償金、補助金助成金に群がる人々は、福島に限らず、どこにでもいる。とりわけ、原発事故に直面した福島ではそうした人々も少なくはないだろう。

だから、これまで原発地域だからというだけで疑いもなく恩恵を受けてきたように、政府や行政、大企業に依存したままで終わる人たちもいるに違いない。以前のような状態になればとだけ考え、これまで抱えてきた自分たち地域の課題に正面から向き合う人たちは多くはないかもしれない。

助成を受けて、新しい事業に取り組んではみたけれど、施設をつくってはみたけれど…結局、継続できず破たんした…それでも深い反省や斬鬼はなく、それも仕方ないと税金を無駄にする。それがいま、返って増えているという話を今回もいくつかの場所で聞かされた。
 
だが、自主自立、独立自尊、自由自治を育てるために、国政は、他の地域の人々は、そのための手立てと知恵と勇気を福島に差し伸べているだろうか。そのために必要な力を添え、寄り添っているといえるだろうか。福島に限らず、地域の疲弊や高齢化少子化、過疎化…無個性化を抑止するための知恵を分かち合おうとしてきたのだろうか。
 
被災した岩手、宮城、福島に出された、6月5日付の内閣総理大臣通知。そこには多くの出荷制限が記載されている。
 
いま福島県産品は全品検査という異例の検査を受けて市場に出荷、もしくは販売されている。いわば、全国のどこよりも、世界のどこよりも厳しい検査基準の中で、出荷されている。
 
だが、そのこと自体に拒絶反応が生まれ、放射能検査の微細を情報として提供すればするほど、その数値に問題がなくても、一層、人々の不安要因となっている。

確かに、汚染された土や森がある。処理できない廃土やがれきもある。その危うさは、確かにある。
しかし、そこに人は生きているのだ…。そこで生活し、そこで家族や地域を守ろうと闘っているのだ。すべての人がそうだとはいわない。安直に国や県に依存する人たちは多い。

だが、少なくとも、そこに全身全霊で生きようとしている人がいる限り、それを手掛かりに、福島の姿を通して、自分たちの地域、生活のあり方を見つめ直すことは怠ってはなららない。
 
そして、ありふれたこれまでの国頼み、政治家頼み、行政依存から自立し、自分たち市民に何ができるかを真摯に問い、共に歩むところから始めなくてはいけない。

人はそこに生きている…先月の中通の取材、そして、今回の中通、いわきの過疎地、相馬への取材の行き帰りで痛感したのはそのことだった。今週は、みなさんとその話をしよう。