世界で唯一の国
人への寛容さの度合い、深さというのはその人自身の人柄を示す。
人柄といった言葉を越えて、人格や人となり、その人の育ちから成育歴、育った家庭環境や受けた教育の質と内容、精神文化、教養、世界観、国際感覚…日々の生き方のすべてを現わすといってもいい。
それほどに、人に対する寛容さというのは、大きい。大きいということは、それだけ寛容さを示すことは難しいということだ。
この国は年々歳々、人への寛容さが失われているように思う。
それほどに、人に対する寛容さというのは、大きい。大きいということは、それだけ寛容さを示すことは難しいということだ。
この国は年々歳々、人への寛容さが失われているように思う。
人との関係を勝ち負けや損得、有利不利、優位劣勢といった、実利、見栄、虚勢の物差しで考えるようになったからだ。
そんなお人よしでは損をするだけだ。言うべきことはきちんと言って、言い返せ。やられたら、やり返せ。何の得にもならない奴とは付き合うな…
それが人と接する基本になれば、当然、人への寛容さというのは希薄になる。
希薄になるばかりか、ちょっと不利益を被った、傷つけられた、裏切られた、くじけた、失敗した…ということがあると、それだけで、つながりの枠からはずされてしまうということが起きる。
しかし、よくよく自分のやってきたこと、やっていることを振り返れば、そんなことのひとつどころか、二つも、三つもやってきているのが人というものだ。つまり、人には寛容さを求めながら、自分では人が許せない。人を利用しながら、自分が人に利用されることが許せない。それが等身大の自分というものなのだ。
このところ、中国や韓国と日本との間にあれこれ軋轢があることもあって、別に互いの国民全員がそうであるわけでもないのに、政治の話を生活の話に置き換えて、中国人、韓国人、日本人という人間の質の問題に話を低俗化し、のの知り合いのような不寛容なことが起きている。
言葉尻をつかまえて始まった口げんかが、実際に互いを威圧する行為になり、やられてばかりでいられるかと互いが喧嘩腰だ。
言葉尻をつかまえて始まった口げんかが、実際に互いを威圧する行為になり、やられてばかりでいられるかと互いが喧嘩腰だ。
喧嘩腰、あるいは口げんかというのは、まっとうな議論をできなくさせるばかりか、教養のない者同士がやると、差別用語を連発し、互いを人間的に貶める。人権や尊厳などといったものがまるで相手にはないような、下品極まりない言葉が飛び交うことになる。
ラフカディ・オハーンがこよなく愛した日本は、確かに弱腰で脆弱なものに、いまの人たちには見えるのだろう。だが、互いへの尊敬といのちあるものすべてへの敬意、自然への畏怖、そこから生まれる謙虚な生き方というのは、何の得にもならないようで、実は一番、強い。
汚い言葉でののしり合い、木刀や鉄パイプでにらみ合い、いやしい言葉で互いを傷つける人をまともな人たちがまじかで見たら、果たして、尊敬し、信頼できるだろうか。あなたが、それを冷静な第三者の立場で見たら、心にどのような思いがよぎるだろう。
シェークスピアのだれもが知る戯曲「ベニスの商人」に、ユダヤ人金貸しシャイロックが登場する。反ユダヤ、ユダヤ差別が当然のヨーロッパ社会にあって、その問題を当時のユダヤ人嫌いの観客が喜ぶように作劇しながら、シェークスピアは人と人が寛容さを失うことの悲しさを実にアイロニーに描いている。
男装した裁判官、アントニオの恋人ポーシャのセリフにこんな言葉がある。
汚い言葉でののしり合い、木刀や鉄パイプでにらみ合い、いやしい言葉で互いを傷つける人をまともな人たちがまじかで見たら、果たして、尊敬し、信頼できるだろうか。あなたが、それを冷静な第三者の立場で見たら、心にどのような思いがよぎるだろう。
シェークスピアのだれもが知る戯曲「ベニスの商人」に、ユダヤ人金貸しシャイロックが登場する。反ユダヤ、ユダヤ差別が当然のヨーロッパ社会にあって、その問題を当時のユダヤ人嫌いの観客が喜ぶように作劇しながら、シェークスピアは人と人が寛容さを失うことの悲しさを実にアイロニーに描いている。
男装した裁判官、アントニオの恋人ポーシャのセリフにこんな言葉がある。
慈悲はよんどころなく、ほどこすべきものではない。慈悲は、天から雨が降るように、あまねく人々に等しく降るものだ…。
寛容さこそが対立を乗り越え、互いの明日をつくる基本にあることをシェークスピアは知っていた。ラフカディ・オハーンが極東の島国を終の棲家としたのも、日本がそれを知る世界で唯一の国であってほしいと願ったからだ。