秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

常識と非常識

私たちは「常識」という言葉が好きだ。しかし、それは同時に、「みんな」に責任を転嫁し、個人の責任をあいまいにするために都合よく使われる。
 
あるいは、自分の個人的な主張や自分たちの主張に妥当性を与えるためにもよく使う。
 
「みんな」に責任を転嫁することは、「みんなと同じであること」以外は、批判や排除、いわゆるスポイルの対象になるというしくみの基本にもある。対極には、非常識という言葉がある通り。

基本、常識というのは、明確な理論や理念の上にある言葉ではない。多くの人がそれを共有している「はずだ」という想定と前提の上に、なんとなく成立しているものに過ぎない。

なんとない社会的合意となんとなく社会通念とされているものの上にからくも成り立っているものに過ぎない。だから、常識には法的規制はなく、それがさらに、どのように使うことも、どのように解釈することもできる、曖昧さを多く含む。

常識のウソという言葉がそれを象徴している。中島みゆきは「世情」という唄の中で、それを「包帯のようなウソ」と言い換えている。

たとえば、昨今、異常ともいえるこの国の人々の隣国批判とヘイトスピーチ。戦争とまではいわないまでも、言葉の暴力どころか、肉体的弾圧を隣国の人々に与えても当然だといわんばかりの激しさも、その人たちの思う「常識」が生んでいる。
 
一方、隣国の人々にある、この国への批判と執拗な謝罪・補償要求も、同じく、その人たちの「常識」がそういわせている。

つまりは、どこにも客観的で、普遍的な基軸のないところで、曖昧さに満ちた、それぞれの常識が凌ぎを削り、かつ、凌ぎを削ることに、互いが昂揚感と興奮を感じているのだ。

当然だ。常識は、それが本来、理念や理論と遠いところにあるために、感情や心情と簡単に結びつく。

新しい歴史教科書をつくる会」などというアホエセ右翼の歴史認識は論外だが、歴史解釈は被害を受けた者と被害を与えたものとでは大きく違う。その根幹を歪曲しているのは、その互いの「常識」。
 
いつもたとえでいうが、これがいずれかが欧米人となるとまったく違う。
 
差別や偏見の構造を分析した理論でよく使われる、スティグマ理論。スティグマとは黒人奴隷時代にからだに牛や馬のように焼きゴテで捺された烙印のことをいう。

そのスティグマ(差別)は、自分と似たものに対して、強く現れる。自分たちとまったく異質なものに対して、じつは人は驚くほど寛容になれる。同じではない…ということが差別を抑止する。
 
黒人に対するアングロサクソンを中心とした激烈な差別は、圧倒的に数が多く、体力的にも勝る黒人をじつは、自分たち白人を脅かす、同国に暮らす「人」と認めていたからなのだ。それが、家畜のような扱いによって、そこにある「人」を無化しようとしていた。
 
この国は戦後から欧米人大好きという人たちが多い。それまで鬼畜米英だったのが、わずか数日で変われる人々だ。あまりにも、違っていたからだ。当時、白人や黒人を見たこともない人がほとんどだった。

だが、同じアジア人には違う。
 
いま、ウクライナでこのスティグマが起きようとしている。もともと、ソ連邦という同じ国で、かつスラブ系の言語。政治的か駆け引きはあるにせよ、ロシア系という人々と純粋なウクライナの人々の対立は、じつは、政治のそれより根が深い。

いまこの国で、ヘイトスピーチを繰り返す人は、自分たちはロシア人とは違うというだろう。あるいは隣国で、日本批判ばかりして、語り合おうとしない人も違うというだろう。だが、それは彼らに知識がなく、無知だからに過ぎない。

私にいわせれば、似たり寄ったりひっくり返ったり。その程度の違いでしかない。世界には、いま常識よりも非常識が満ち満ちている。