秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

日本の面影

いまのような不安の時代…
 
人は安全であるために、あちらにも足をかけておこう、こちらにも気持ちをつないでおこう、むこうにも気を遣っておこう…と、あちこちに足場と手がかりをつくりたがる。
 
あるいは、そのように足場や手がかりをつくっておいたものが、当てにならなくなると、すぐに、これまで足場にも、手がかりにしていなかったものに、なんのてらいも恥も外聞もなく、すり寄る。
 
とにかく、足場になりそうなもの、手かがりになるものがなんであってもよく、とりあえず、わが身を守れるものがあれば、なんでも利用する。
 
いわゆる八方美人になる。風見鶏になる。それを厭わないし、恥ずかしいことだとも感じない。感じないように、精神や理念や信念といった人の行動原理の核となるものを持とうとしない。持っているようにみせて、じつは、ない。
 
だが、八方美人にせよ、風見鶏にせよ、その言葉のもうひとつの意味にあるように、見方を変えれば、そして、その心の持ち方次第によっては、みんなから好かれる美人として世間の評価があるということもある。
 
時の流れをいち早くよみ、どこへ向かうかの方向を人々に示す存在という意味にもなる。すばやく危険を察知する能力があるということにもなる。

かしこく生き延びる道として、みんなに好かれる存在であるために、人は、不安の時代、それをよしとし、そうあることが当然なのだと納得する。それほどに、行動原理を持たないということは不安だし、怖いことなのだ。

だが、果して、それでいいのだろうか。

人としての矜持や誇り、人としての尊厳や価値…。不安だから、心配だから、こわいからと、自らの信念、理念、理想を持とうとしなければ、それらを人は自分のものとすることは生涯叶わないだろう。

自分の我執や貪欲、狭隘さによってもたらされる信念、理念、理想などというものはない。人としての矜持や誇り、尊厳や価値とは、我を離れてこそ見出されるものだからだ。いわば、不安や怖さというのは、我執や貪欲、狭隘さが生み出すものなのだ。

私はいまの政治家や政治を利用する人たち、政治にすり寄る人たちを見ていると、そこに、人としての矜持や誇り、尊厳や価値のひとかけらも見ることはできない。
 
額に汗し、手や顔に皺をつくり、日々の贅沢は求めず、たまの贅沢に合掌し、常に自然に感謝し、今日を喜び、しかしながら、日々の暮らしに追われる市井の人々の姿に、私は、この国から失われ、わずかに残る、その残像を見る。

不安はじつは自分がつくっている。向いてる顔の方向が違う。見ている視線の先にあるものが違う。その過ちに気づかなければ、わすかに残された、日本人の「日本の面影」は失われてしまうだろう。
 
なによりも悲しいのは、ラフカディ・オハーンが語り続けたように、そのことだ。