いわき紀行5 よこさこいとMOVE宣言
じゃんがら2団体がいま事務局長をやってもらってる、いわき出身のSさんの力で「大いわき祭」に参加してくださることになっていた。
それでも出演団体が少ないのでは…心配してくださっていたのだろう。久之浜の被災した商店街の一部が仮設で始めていた浜風商店街の床屋にいったとき、海神乱舞のことを思い出してくださった。
そういえば…と床屋のおかみさんにいうと、団体の会長をやっているKさんの携帯番号を知っていた。その場ですぐに電話をしてもらい、しばらくして出演が決まったのだ。
今回、いわきで同行取材してくれたIくんが、取材に向う途中、聞いてきた。「監督は、どういう縁で海神乱舞のみなさんと知り合ったんですか?」
いまの話をした後で、オレは続けた。
いまの話をした後で、オレは続けた。
みんなが一同に集まる場所もなければ、それどころではない状況にあった。だが、それでも、地元のイベントに呼ばれて踊っていた。このまま続けていいものか…いや、そもそも先々のわからない中、続けていけるのだろうか…みんなが心の中でそう思っていた。
そのとき、東京の六本木にある、なんとかという場所で踊ってくれないかと声をかけられた。きっと、MOVEという団体名も、東京ミッドタウンという場所も聞き取れなかったに違いない。
そのとき、東京の六本木にある、なんとかという場所で踊ってくれないかと声をかけられた。きっと、MOVEという団体名も、東京ミッドタウンという場所も聞き取れなかったに違いない。
だが、それがひとつのはずみになった。東京で踊れる…。それはこれまで一度もなかったことだったからだ。稽古を重ねるうちに、もう続けるのは難しい…そう思いかけていた気持ちが消えていった。自分たちの踊りを東京で呼んでくれる人たちがいる…
まだ、会ったこともなかった当時、久之浜のおばちゃんたちはそう思ってくれていた。
予算のない中、いわきから参加する団体の交通費をどうするか…という問題があった。W社長が商工会議所にかけあって、なんとか費用の一部を捻出してくれた。こちらもでも、一部にしかならないが、費用を工面した。
それをFMいわきの局長のAちゃんに伝えたときだ。「本当に、申し訳ない。これくらいしか工面できなくて…」そういうオレに、Aちゃんが稽古風景を見てきたときのことを伝えてくれた。
「秀嶋さん。気にやまなくても、きっと大丈夫だよ…」。そして、稽古場での久之浜のおばちゃんたちの雑談を伝えてくれたのだ。
東京で出演できるというので、みんながいつも以上に稽古に励んでいた。休憩時間。ある人がいった。「こんなに家のことほっぽらかして、よさこいばっかやってたら、家から文句いわれるな」。すると、またある人がいった。「なにいってんだぁ。家は焼けちまったから、家が文句いうわけねぇべ」。
そして、みんなが大声で笑っていた…。
それを電話口でAちゃんから聞いたとき、オレは抑えていた涙がどっと溢れてとまらなかった。顔も合わせたこともない、オレたちの願いに、手弁当でもいいから参加する…そういってくださっていたのだ。
オレはそのとき、開催まで苦労の連続だったこのイベントがきっと必ず成功する…そう確信した。そして、以来、いわきにいくとき、時間があると、よさこいのおばさんたちに会うようになっていった。
初めて、会長に檜町公園であったとき、会長がいってくれた。「秀嶋さん。ここに書いてある通りよ。私たちが自分たちの力で立ち上がろうとしなきゃね。支援する側、される側という関係じゃいけないのよ。そう思った」。
初めて、会長に檜町公園であったとき、会長がいってくれた。「秀嶋さん。ここに書いてある通りよ。私たちが自分たちの力で立ち上がろうとしなきゃね。支援する側、される側という関係じゃいけないのよ。そう思った」。
会長はオレの知らないところで、2011年のMOVE宣言を読んでくれていた。