いわき紀行4 いわきのために踊る
そんなとき、フラガール甲子園がスタートとすることになった。第一回の開催は、2011年3月。勇んで稽古に励んだ。その第一回がいわきで開催されるはずだった。
だが、いわきの人々の熱意と支援の力で、東京秋葉原で第一回をやることになる。
震災から2ヵ月後、高校生たちが戻ってきた。避難所で、先生は避難所の人々にストレッチを指導していた。それを見た女子高校生たちは思った。自分たちにできることは…。そうだ、フラを踊ろう。先生の縁で、避難所の体育館で踊った。仮設住宅でも、復興イベントでも…。
高校生たちは喜びを知った。フラを踊ることの喜び。そして、そのフラで笑顔になる被災した仲間や先輩、大人たち、子どもたちの顔と出会えることの喜び。
震災後、フラはあちこちでひっぱりだこだった。チームが足りない中、いろいろなところから声がかかった。フラガール甲子園では、2年連続で第二位になった。
だが、いま、新入部員がまだいない。最低3名でないと、フラガール甲子園には出場できない。学校は人数さえそろえば、正式ではないが同好会として承認し、活動を応援しようとしてくれている。
卒業したOGたちはそれぞれの道を歩んでいるが、Yさんのお嬢さんは、昨年同様、スパリゾートハワイアンの養成所を受験するという。昨年の深い失意を知る保護者のYさんは、芸能の別の道もあるのでは…と腐心したらしい。だが、彼女はどうしても、スパリゾートにもう一度挑戦すると決めている。
多くの人は知らない。スパリゾートハワイアンズのフラガールは卒業年齢がある。養成期間も含めると、現役の中心で踊れるのは20代のわずかな年数だ。そして、その多くがいわき市内か、その周辺地域の方。自宅から車で、毎朝OLのように出勤し、地元のごく普通の生活の中で、華やかな舞台に上がっている。
それだけに震災と原発事故、そして風評被害の現実を体と生活の中で知っている。
多くの人は知らない。スパリゾートハワイアンズのフラガールは卒業年齢がある。養成期間も含めると、現役の中心で踊れるのは20代のわずかな年数だ。そして、その多くがいわき市内か、その周辺地域の方。自宅から車で、毎朝OLのように出勤し、地元のごく普通の生活の中で、華やかな舞台に上がっている。
それだけに震災と原発事故、そして風評被害の現実を体と生活の中で知っている。
おそらく、Yさんのお嬢さんは、心のどこかに、そんな思いを溜めているのではないだろうか。東京の公共放送のプロデューサーの眼にもとまったほど、凛として美しい。だが、そうした東京の芸能界の世界ではなく、いわきを代表するフラガールとして自分の一番美しい時間を生きたい…
そこに、小名浜に生まれ、いわきに生きようとするひとりの女性の芯のようなものを見た。ふるさとを捨てず、ふるさとに生きる…生きることの意味と価値を見出す。それは、いうまでもなく、いわきのために踊るということだ。
そこに、小名浜に生まれ、いわきに生きようとするひとりの女性の芯のようなものを見た。ふるさとを捨てず、ふるさとに生きる…生きることの意味と価値を見出す。それは、いうまでもなく、いわきのために踊るということだ。
十全でない中、それを目指す心があれば、たとえ、道は違うことになっても、この子の人生がブレることはない。