秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

すべては縁から

14日夜、いわき着で、Oさんと同行してくれているIさんの3人で田町で飲む。0さんが最近、親戚まわりを始めていて、浅草のこじんまりした大衆割烹の店が親戚筋にあたると数日前、FBで読んでびっくり。

40代に入ってから、ほぼ、半径1キロ圏内でしか飲まないオレが、唯一例外的にいっている店が築地と浅草にある。その1軒の浅草の店が0さんの親戚筋だったのだ!

このブログでもすでに紹介したことがある。夫婦でやるこじんまりした店ながら、実に料理がうまい。それに夫婦の人柄がいい。東映のY部長に紹介してもらってから、3か月に1度、浅草まで足を運び通うようになった店。

浅草にもいろいろな飲食店がある中、その1店で0さんとつながる。またまた、不思議なことだ。前にも書いたが、0さんがいわきの風評被害打破で仲間と立ち上げたいわきビジネス復興協議会。その入居したビルの下のフロアは、長年のつきあいのデザイナー事務所で、大いわき祭のポスター・スタッフTシャツを無償で提供してくれていたのだ。

15日。久之浜の菓匠梅月のKさんの仕事風景を取材し、夕刻、ランチをした平の住宅街にある中華の翠月園の志田さんへ。大いわき祭・福島東北まつりに自慢の豚まんを出してくれた店。いわき在住の元タウン誌記者でMOVEメンバー、Aくんが教えてくれ、イベントで代行販売をやった店だ。

厨房まで入らせてもらい、あれこれお話したのは初。それが、自宅は久之浜地震後の火事で焼失した、菓匠梅月の隣だったという…。震災前に、区画整理でいまの別の場所に移り、直接の被災は免れたのだという。よさこいのおばさん連中も知っている。

これも奇遇。高齢のご母堂は、震災前から透析治療が必要な体で、被災直後は久之浜中の体育館にいて、治療薬が底をついて、横浜の病院に転院せざるえなかった。2か月後、病院が再開したときいて、久之浜に戻りたいと切望され、いわきに戻り、しばらくは、店の2階での生活。
 
同時に、先は見えないまま中華店を再開。資金繰りの借金までして不安だったろう。
だが、原発作業員や避難地域から移転してきた人たちのおかげで、これまでにない盛況になり、返済のめどが立ったという。

だが、高齢者にとって、被災とその後の移動、転院は心身ともに、きつかった。高齢の両親は震災から2年で、次々に亡くなられたそうだ。それでも、淡々と店を続けている。

調理人の常なのか。調理風景を撮影していると寡黙な表情だったが、梅月など久之浜の話でつながりがわかるとその表情がゆるんだ。そして、Smart City FUKUSHIMA MOVEで情報が広がることを素直に喜んでくださった。

そうなのだ。人を元気にするもの、人に勇気をくれるもの、そして、自分は決してひとりではない。そう思わせてくれるもの…

それは、すべてつながり。縁なのだ。