涙は心の奥深くに佇んでいる
お二人には、昨年の9月に、「大いわき祭」を実施する直前に弁護士のSさんの紹介で面識を持たせてもらい、以来、イベントで上京されたとき、また、オレがいわき市へ行ったときには、時間があれば、会い、ときには酒を酌み交わすということをやっている。
知り合ってからわずか半年程度。にもかかわらず、共にいわき、そして福島、東北のために…という思いが共鳴して、ずいぶんと濃い交流を持たせてもらっている。
しかし、それだけの付き合いをさせてもらいながら、震災当時のことを互いにあれこれ話題にすることがなかった。意図して避けていたわけではない。復興、再生、新生という思いの方が強く、また、眼の前の取り組みに懸命になる中で、そうした話より優先させなくてはいけない話題の方が多かったこともある。
昨夜は、Oさんの小名浜の店の新装1周年だったこともあったかもしれない。だれがいうともなしに、震災当時の話題になった。
Oさんは、小名浜の店を本来、震災の起きた3月にオープン予定だった。内装が終わり、商品を陳列する前に震災がきた。それでも、14日には店を開けた。被災し、地域の人々の生活物資がなかったからだ。そして、先の見えない中、翌月には店を通常通り営業開始した。
「原発の水素爆発のときは、いわきの人ほとんどがいなくなった。だけど、自分は店を放り出して、逃げるわけにはいかなかった。避難のため、家族と別れるとき、もう一生会えない…そんな気持ちでした…。死ぬ気でした。日本がなくなる…そう思ってましたから」
にもかかわらず、大手マスコミは全員が避難した。その結果、マスコミの眼は、原発事故周辺地域、大規模な被害があった東北の他の地域にそそがれ、いわきを素通りした。いわきに提携都市東京都港区から一番早い救援物資が届いたのは、震災から2週間も経ってからだ。
Kさんは、同じように、新聞社の人間として、そして責任のある地位にある人間として、会社にとどまった。水も電気も、食料もなく、人々がいなくなったいわきに踏みとどまった。自分の親は、避難地域の広野町だった。そのときの身を裂かれる思いは、
普段の陽気な人柄からは想像できない。
話すうちに、気づけばお二人の眼には涙があった。いかにあのとき、いわきに踏みとどまった人たちが深い思い、裂かれるような思いでそこにいたのか…また、そうした肉親と別れ、いわきから避難した人々にどのような思いがあったか。
震災直後から地元情報を途切れず流し続けたFMいわき。そのA局長と話したとき、こんな話を聞かせてくれた。
震災直後から地元情報を途切れず流し続けたFMいわき。そのA局長と話したとき、こんな話を聞かせてくれた。
放射能汚染から子どもを守るために、いわきを離れ、ご主人だけが単身、いわきで仕事をしている妻子が、避難した場所で、夫をひとり残して逃げてくるなんて!と、周囲の人に非難されるらしい。家族が別々に暮らさざるえない思い。幼い子どもを心配する親の思いは、そうして孤立している。
震災後しばらくして、オレもいろいろなところで聴いた、婚約破棄といった福島差別もまだ依然としてある。
ある農業をやっている高齢の方は、放射能度の高い土地をいまでも耕し、手入れしている。そこで作物をつくったからといって、売れるわけではない。人体に問題がない染度だとしても、売れないのだ。しかし、その方は、ただ、黙々と土を耕しているという。そんことをしても…と人はいうだろう。確かにそうかもしれない。しかし、その方が意識しているかどうは別にして、その姿には、無言の抗議がある…とオレは思う。
声をかければ、陽気な笑顔が返ってくる。しかし、被災地の現実とはそういうものだと思う。しかし、そうした元気です、がんばります…だけが被災地のいまではない。
声をかければ、陽気な笑顔が返ってくる。しかし、被災地の現実とはそういうものだと思う。しかし、そうした元気です、がんばります…だけが被災地のいまではない。
経験ある人、決意の中にある人、人に迷惑をかけてはいけないという矜持を持つ人…涙は、心の奥深くに佇んでいる。