秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

復興という言葉がいけない

かつて、自治体が箱物といわれる施設建設やインフラ整備に予算を費やした時期がある。この国の政治家や官僚、行政マンたちは、何事か「やったぞ」という目に見える形にこだわりがちだ。
 
予算のしくみも実体の見えるものではないと振り分けされない。ハードではなく、ソフト事業として、こんな事業をと考えても、提出する行政書類には、そのソフトを数値化し、見えないものを記載する欄がない。逆に、その数値の根拠が明確でないと、はねられる。
 
結果、市町村行政から始まり、県などの広域行政、そして、さらには、そこから所轄中央官庁、政府に至るまで、書類や決められた概算書・予算書・申請書の書式に則らないものは、見えてこなくなる。同時に、見えてこないものを読み解き、形にできる訓練と能力が磨かれないままとなる。
 
しくみそのものを変える気がないからだ。そして、しくみそのものを変えるセクションや機関がないからだ。さらには、しくみそのものを変えると、いままで以上に仕事が増えて、手が回らなくなることもわかっているからだ。

ちょっと待った。というのが、行政レベルではできない。かといって、では、政治にそれができるかといえば、できはしない。そのゆとりと訓練、能力が政治そのものにないからだ。それを育てることのできる選挙制度や政治制度になっていない。

ここにきて、復興予算の使われ方がよく見てきている。ほぼすべてが防災という名のもとや再生エネルギーという美名の中のハードだ。前にも書いたが、気仙沼を始め、大規模津波の被害に見舞われた海岸線では、これまた、津波と競うような堅牢で高い防波堤建設計画が進んでいる。
 
福島県にいったっては、風評被害を乗り越えるのに、集客のためのアミューズメントタウン建設の計画が立ち上がろうとしている。

どこを見回しても、ハードの眼からみた、建築計画ラッシュで、そこに、現実の人の姿、人を数に入れた計画がみえない。

復興という名のもとに、ソフト面で取り組むNPOや任意団体もないわけではない。だが、それがまた、もとあるものを取り戻そうという発想のものであったり、そこにあるもの、そのままでいいものを、あれこれ、手を加え、小賢しい告知や宣伝に走り、自分たち団体のアピールに利用しているものもある。

いずれもすべて、「復興」という言葉がいけない。そもそも、被災前から、東北に限らず、地方、地域力というものは底をついていた。それを被災といっしょくたにして議論し、被災地支援という視点で物事を観るからおかしなことになる。

地域力というものをここでもう一度みつめなおし、震災のあるなしにかかわらず、これからの地域がどうあるべきか…そう考えなくては、結局、ハード優先の人の見えない施策が続く。あるいは、地域力を別のもので埋めようとする、これまでの都市依存、大企業依存から一歩もでない。
 
やっているときは、いかにも地域のため…と思えても、それが実現し、少し時間が経てば、また、もとの鞘に戻る。

大事なのは、地域にあるポテンシャル、人的魅力を見失わないことだ。それを生かす道を考えればいいことで、手前勝手なアレンジをして、地域とは程遠いものにしてしまうことではない。