なにもしていないのに等しい
しかし、それは国民感情の底流に、新たに萌芽したものへの認識が甘い。
60年代中盤から続く公害闘争の中で、企業の社会的責任が問われ、国政の無策が糾弾され、失われた環境が一部回復されると、80年代から現在に至る食の安全が次の国民的関心となっていった。
だが、公害も食の安全も、いわば制度やシステム、企業理念の再構築によって、人為的に改善することができる。人々の安全安心への過剰さを含めたこだわりは、コントロール可能という範囲と食の選択の自由において、逃げ場を持ちえた。
そして、その意識は、より安全なもの、より安心なもの、より健康なものへとトレンドを強化する。それは疑わしきものは罰する=拒絶するという心理に拍車をかける。
社会が成熟し、生活環境から汚物や汚水処理も含め、きたいないとされるものが人の眼から遠ざけられ、同時に、土や家畜のにおい、あるいは、人の体臭から室内のにおいまで、無臭が当然とされるようになっていた。
アロマが生活を潤すアイテムとされる中、性的なものを含めたにおいは、人のコントロール化に置かれている。
そこに、安全、安心、そして健康、もっといえば、美が連結されることで、それと逆行する、あるいは、逆行していると疑わしきものは、社会から排除されている。
そして、放射能汚染においては、それがいつ自分の生活地域、エリアで流入してくるかわからないという怖れによって、福島に、それも原発地域30キロに、意識を限定させることで、ないものにする、みないことにする…という現象が起きようとしている。
安倍首相がコントロールされているといったのは、防波堤内にとどめられているという付録のウソがつく。現実離れしたその言葉がまことしやかに、福島県外、国内、世界を駆け巡るのは、限定することで、とらえようのない放射能の現実から逃亡する、この心理現象が強く働いているからだ。
バイアスのかかった正義感で、ことさらに放射能の汚染問題を語るのは妥当ではない。だが、同時に、その現実に目を背け続けることも、説得力はない。
どこに真実があり、どこに嘘があるのか。それをきちんと見極められる人が次第に少なくなっている。
その大きな要因のひとつは、昨今、多くの人が正義などというものをまるで普遍的なもののように語るようになっているからだ。
マスコミを含め、一般的に語られる正義などというものには、何の論理的根拠も、普遍的な体系づけなどもされていない。
多くが、集団や個人の心情を正義という言葉にすり替えているに過ぎない。倫理や道徳的な価値基準と法とを混同するのも、そこにすり替えが起きているからだ。
自分の心情や自分たちが信じる倫理や道徳を持ち出して、それが正義であり、かつ法の基本にならなくてはいけないと考える。かつてのブッシュのように、果ては世界がそれを基に動いていないとそれすらも否定し、圧力をかける。
それがまったく何の論理的組立も、法制度や法秩序の基本の上にないことは、それを語る人々の感情過多な発言や〇〇モンスターのごとく、過剰な他者への否定の言動をみればすぐにわかる。
差別や排除のヘイトスピーチや他者への人権を無視した冒涜、いわゆる暴力が平気でできていて、どこに普遍的な正義があり、どこに法制度や法体系を理解できているというのだろうか。
心情で正義を語る人の多くは、そのことによって、諍いや対立が生まれても決して責任をとる覚悟はない。責任とは、自らの安全と安心を守ることをいうのではない。
責任のとれる人とは、自分のその無知さが多くの人の安全と安心を危機にさらすことを知る人のことをいうのだ。それをしないために、自ら学習し、行動し、危機回避のできる人のことだ。
だが、そこまで責任をとる覚悟は、無知な人たちにはない。
だが、そこまで責任をとる覚悟は、無知な人たちにはない。
なぜなら、それだけのネゴシエーションができる論理と交渉力、人を納得させる魅力を持っていないからだ。
いま世の中には、こうした浅薄な心情やわずかばかりの経験で、人や社会を読んだ気になり、まことしやかなことを声高に語る人が増えた。また、それに翻弄される学習のない人も少なくない。
だが、そうした見極めは、その人が実際にしている行動を見れば、すぐにわかる。すべての思考は行動によって明らかになる。行動なき理論も思考も、それはないに等しい。また、理論と思考なき、行動も、なにもしていないのに等しい。