秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

JINの教え

乃木坂の裏通りに、よくいく家族経営の全日食のスーパーがある。

通い出してからはずいんぶんになるが、ほぼ二日に一回は顔を出すような常連さんになったのは、つい数年前からのことだ。

夕方にいくと、ここでは、よく例の地酒の店ハンナのばばあと遭遇するし、いまのマンションに事務所を移してからだから、十年の付き合いになる、近くのクリーニング店のおかみさんともよく遭遇する。

半年ほど前、その行きなれたスーパーの従業員の女性たちが、オレがどういう人間か、実はとても興味深々だったらしいことを知った。

確かに、普段のオレの服装や外見からして、職業不詳と映ったのは当然だ。しかも、平日の昼間とかに買い物にいったりするから、なお、不思議だったのだろう。コンビニ的に利用するのではなく、食材、洗剤など、主婦並の買い物をするのだから、違和感があったに違いない。

かつ、主婦ならば、気軽に声をかけられるのだろうが、こちらは働き盛りの男だ。そうそう声をかけられなかったのだろう。

時候の挨拶程度はしていた。すると、ある日、仕事は何やってるんですか?と奥さんに聞かれた。実は…と、仕事を告げると、その先から、他の従業員の女性たちに、ねぇ、カントクだって!と、始まる。

いやいや、社会派の地味な監督ですから…。といっても、へぇ~と、いった調子。さすがに、Redに来る連中のように、いやぁ、AVやってるんですよ、とか、土建の現場監督ですよ、といった冗談は言えない。マジ、本気にするのは目に見えている。

しかし、それをきっかけに、何者かがわかったことで、よく声をかけられるようになった。安心してくれたのだ。オレの本のチラシを、本の営業と自己紹介を兼ねて持っていくと、さっそく、レジの後ろに貼ってくれる。

最近のテレビや映画の話題を、どうなのか、とふってくれる。とりわけ、ドラマ好きの方が一人いて、マイケル・ジャクソンの映画に感動した話や封切り映画はどれがお薦めなのかなどと、あれこれ尋ねられる。

土曜日に顔を出すと、さっそく、昨日で最終話を迎えたTBSの「JIN」の話題。芝居のうまい、いい役者が出ていますよね…。いいところを観ている。でも、きっと、スペシャルや次に連ドラとして続けられるように、中途半端な終り方になりますよ…。よくわかっている。

そして、オレは思う。やはり、人はそもそも論を求めているのだ。そもそも論を語ることのなくなった、いまという時代の中で、毎日を淡々と生活する装いの中でも、実は、心の奥で、人と人が関り合うこと、いまという時間を生きることの意味を、人は、求めている。

いや、そもそも論が曖昧な時代だからこそ、JINのようなドラマが大きな反響を呼んでいる。おそらく、制作している側にも、ドラマの原点に帰ろうという熱意、つまり、そもそも論があったに違いない。

そして、あのドラマがヒットした、もう一つの大きな理由…。

主人公の南方仁という人物が、江戸というタイムスリップした時代では、家族も、愛する人も、居場所もない、不確かな存在だということだ。その不確かな存在を、未知であるがゆえに、否定され、かつ、未知であろうと、受け入れてくれる人々がいる。その曖昧さの中で葛藤する主人公の姿が共感につながっている。

どこのだれだかわからない…。その不安と所在のなさは、いま多くの人々の深層にある感情だ。他人に自分という人間を受け入れてもらえない歯がゆさ、他者と深くつながりあえないもどかしさ。それは、そのまま南方仁なのだ。

しかし、そうした孤独の中でも、自分という、どこのだれかわらない人間を支え、受け入れてくれる人がいる、古き、日本の共同体社会、人間の情で結びつく、相互扶助が生きていた、江戸の姿に感動している。

家族があったとしても、組織の中で仕事をしていても、友人や知人に囲まれていても、人は、孤独を感じる。かつてのように、濃密であるがゆえに、煩わしいが、孤独を埋め合わせられるだけの人間関係があった時代とは、比べようもないほど、人は孤独を感じる時代を生きている。

だが、職業不詳の怪しい男を、時間をかけながら受け入れてくれた、オレの通うスーパーの人たちのように、出会いを積み重ねていけば、みつけられる新しい関係がある。

JINは、それを教えている。