秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

雨あがる

人というのは、どうしても周囲の評価や実績を求めたがる。それも、ある分野や人々に限られたものではなく、広く多くの人の眼にふれるものとして、それを欲しがる。
 
確かに、広く多くの人の眼にふれれば、狭い分野や限られた人々に認められるより、世間的にも、また、その仕事の成果を広げる上でもいいのだろう。
 
ビジネスの世界ではもちろんだが、舞台や映画、あるいは小説、美術、造形の世界でも同じようなことがいわれる。また、そうした俗に名声というものを求める人は少なくはない。名声はいずれ富ともつながるからだ。

だから、とかくに、人は表舞台に立ちたがる。逆に、そうしたことを求めない人がいるとどうしたことか…と疑心暗鬼になるし、侮れないと警戒もする。果ては、実力や実績がないからとか、メジャーじゃないからとかいったくくりを設けたがる。

6年前に亡くなった義父は、戦前、県内でも数人しか合格できないといわれた、陸軍士官学校卒のエリート軍人だった。いまの人たちはあまり知らないだろうが、東大などよりはるかに学業優秀な人材がそこに集まっていた。

終戦後、京大農学部に入り、卒業した。当時、あまりに士官学校卒が東大、京大に合格するため、GHQから採用人数を制限されたほどだ。民主日本のリーダーを生む大学に軍国主義教育を叩きこまれた士官学校出身が大勢を占めるのを警戒した。
 
卒業後はB級戦犯のため、希望していた農水省には入庁できず、しばらく浪人生活を送り、農水省政府系金融機関に入職し、最後は関東総局長で退職した。当然ながら、役員として残る話もあったし、当時では珍しくない天下りの理事長職などもあったが、すべて断って、鹿児島の田舎町にひっこんでしまった。義父は当時から天下りに反対だった。

そのときはオレももったいないと思った。義父の考えには反発するところもあったが、話し好きの義父と語っていると、その教養の高さと知識の広さ、読書量の多さ、そして、冷静に時代や政治経済を見る目に驚かされていたからだ。ロシア語はペラペラで、第二外国語でかじった程度のオレはたじたじだったw

いまにして思うと、本当に自分の名声や社会的地位、富にこだわらない人だった。在職中は昼行燈とあだ名されていた。
 
生活も質素だった。「本当の生活っていうのは、畑を耕し、皺をつくり、毎日を質素に生きる人たちの中にこそあるんだよ。都会でなんでも手を伸ばせば手に入るような生活に本当の生活ってのはないんだ」。それが口ぐせのような人だった。

鹿児島の田舎の理髪店で、服装もたいして立派ではない、近所のおじさんが、実は農水省関連の団体の要職を勤め、京大卒とわかって、噂になったらしい。代々市長を出している家ということもあり、帰郷してすぐは選挙のために帰ってきたのではないかと市議会の有力候補が何度も真意を尋ねにきた。

昨日、さすがにこのところの会合続きや新春の集い続きでつかれ、CSをつけると「雨あがる」をやっていた。ふと、その義父のことを思い出した。この映画をみた最初のときも、義父のことを思い出しのを覚えている。

ただ、雨あがるの主人公と違っていたのは、仕官すれば、それなりに忍耐し、家族を困られるような生活はしなかったことだ。家族を路頭に迷わせることだけは男子としてあってはならない…そういう人だった。

どうやから、その肝心なところは、オレに抜けている。それ以外では、なんとか太刀打ちできたとしても、義父には、まちがないなく、負けていた。

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