秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

コミュニケーションに変えられない奴ら

50代以上の世代と若い人たちとの生活感覚の違いやズレが年長者の集りになると、とかく出やすい。

しかし、そこで聞く話は、大方、50代以上の世代の方がピントがズレている。オレはその世代にいながら、そうした席でいつも違和感を感じてしまう。
 
生活や仕事の経験、知識や常識といわれるものの量は確かに、そうした世代の方が多いかもしれない。しかし、問題のは、その軽重ではなく、いまの何をみつめ、何を課題とし、そして、それにどうアプローチしようとしているかなのだ。
 
聞けば、そのみつめている何かがわからないから、困ったもんだ…であり、課題としているものがよくわらず、わかってとしても、なんだ、そんなことで…といった削除だ。そして、その二点において理解できたとしても、アプローチのあり方をほぼ全否定する。

確かに。若い奴らに任せっぱなし、投げっぱなしだと、おいおいと苦言のひとつやふたつ言いたくなる。苦言ですめばいいが、まったく予想もしないところにいってしまって、後処理が大変だったり、怒りたくなることもある。
 
見えている世界、つながってる世界が小さいからだ。気配り、目配り、心配りの範囲が狭くて、届いていない。ひとつに夢中になるとそこに視線が奪われ、それ以上学ばず、その世界の範囲で思慮分別がつけば、いいのだと錯覚する。自分がいる組織のことも、自分がかかわっている多くの人々のことも目に入らない。
 
だが、これは、別に20代の連中にいえることではなく、30代でも、いい歳こいた、40代でも、50代でも、狭窄したアホはいっぱいいる。
 
だが、そもそも、任せっぱなし、投げっぱなしなのがよくない。あてにならないなら、やってみせて、話して聞かせて、また、やらせてみせるしかない。つまり、手間がかかる。それでもダメなら、別のことを考えさせるなり、やらせた方がいい。人には人の持ち分というものがある。

教えるべきは、世界はおまえが思っているほど狭くないということであり、かつ、おまえが思う世界は驚くほど、狭いのだと伝えることだ。それが素直に聞ける奴は、必ず伸びる。深い学習もするし、手前勝手な正義などに縛られたりはしない。

聞けないで大人になった奴が、表層でしか物をとらえられず、若い奴との確かなコミュニケーションもできない。やっているのは、日常のカンバセ―ションに過ぎない。カンバセ―ションをコミュニケーションに変えられないから、若い世代にため息をつく、つまらない大人に成り果てている。