秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

スクールカースト時代の欲求

今週後半から編集作業と原稿書きに追われる。という口実を自分でつくり、夜早めに仕事を切り上げ、六本木ヒルズのTOHOシネマへ。
 
どこかで観ようと思ううちに、あれこれ仕事に追われ、気づいてみれば、そろそろ公開終了の時期。いましかないと、駆け込んだのが昨夜というわけ。
 
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いまオレが強烈にはまっている、FBの開発者の実話に基づく映画。もう鑑賞した人の方が多いと思う。
 
監督は、デヴィッド・フィンチャー。『セブン』では、冷淡、冷徹といっていい視点で犯罪を描き、『ゲーム』では、意表をつくどんてん返しで、オレを圧倒した。『ベンジャミン・バドン』では、愛と老いという人間普遍のテーマに挑んだ。実に多彩な監督。
 
ゴールデングローブ賞では各賞総なめだったが、アカデミー賞では、下馬評の作品賞受賞も逃してしまった。が、確かに、映画のクオリティという点で、アカデミー賞の受賞には、物足りない映画。
 
世界へと飛び火している市民運動にFBが大きく影響しているいまだったら、話題性から受賞という道もあったかもしれないが、映画そのものは、人間を描くという点で、食い足りなさ、物足りなさが残る。
 
 
 
実は、ストーリーはすべて知っていて、その評価も耳にしていた。速射砲のように続く会話と、カットバックを多用したテンポのいい映画。それだけに、じっくり描く、じっくり見せるといった、心象に届く展開がない。名作『セブン』とはまったく対局の作品。
 
しかし、若い学生たちが起業するという一瞬の風を描く上では、それが必要だったというのは伝わってくる。
 
この時代、実は、98年のコロンバイン高校の銃乱射事件に始まり、アメリカの各地の学校で銃乱射や殺傷事件が起きている。日本ではいじめによる自殺、そして、いじめを要因とした殺傷、暴力事件も増加した。
 
スクールカースト」と呼ばれる、階層化が子どもたちの中ででき、いけてる奴、いけてない奴、おねぇちゃんとうまくやれる奴、やれない奴の選別が細分化され、ランク付けされる現象が急速に広がった。
 
映画の中でも、ハーバード大のどの「クラブ」(部活ではなく、グレード分けされた学生の集団組織)に所属するかが大きなキーワードになっている。
 
対人コミュニケーションに欠ける、あるいは、同質等質のコミュニケーション力がないというだけで、グルーピングからスポイルされた連中。その中から、対社会、対学校、対クラス、対同級生といった形で憎悪の暴力が起きた。これは日本の無差別殺傷事件という姿にも現れている。
 
仲間を形成できない。仲間であっても、いつ裏切られ、スポイルされるかわからない。その不安は、だが、コミュニケ―ションカースト、KYな連中だけでなく、ふつうの若者、学生たちに共有されていたものだ。
 
いつ自分がスティグマ(差別の烙印)にくくられるかわらかないという不安は、実社会の構造そのものを映していた。若い世代はそのために自己防衛をしようと、不安を生きぬくために、見えざるカーストを見えるものとし、トレーニング場、模擬練習場として学校社会の中で、カースト社会を現実のものにしていたのだ。
 
FBが開発者や創業者の想像を超えた規模に拡大したのは、実は、この人々の他者への不安がある。無作為に、無防備に他者とつながることの不安と、そのために起きる摩擦や齟齬、対立、それゆえに生まれる傷、カーストの下層に組み込まれる危険を回避するための有効なツールとしてFBは、不安の砂漠が水を吸うように世界へと拡大したのだ。
 
この映画の物足りなさは、その点をえぐっていないこと。FBが、人と人がリアルコミュニケ―ションだけではなく、事前のストレッチを経てしか、成立しないという悲しい時代を向かえていることの視点が欠落している。
 
そういう手段を用いてでも、他者とつながりたいという切実な欲求。それは、実に悲しく、実に尊い。ラストシーンは、それを描こうとしてはいるが…。