秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

世代を越えろ

午前中、銀座、芝と自転車で走りまわり、事務所に戻りキャスティング。
 
夕方、女優のYが来訪。夏以来。
 
在学している芸術系大学の映画の自主作品に立て続けにオファーがきて、ほとんど時間がとれなかたらしい。学費と叔母の家での寄宿費以外、大学までの交通費など、生活実費は、自分で賄っているから、バイトは欠かせない。
 
とはいえ、ガールズトークは欠かしていないようだし、年齢相応にディズニーシーで遊ぶことも忘れてはいない。が、しかし…。
 
多少なりとも、可能性のある俳優には、必ず言うことがある。
 
「世代を越えろ。年令を越えろ」。
 
同世代だけの、未熟な世界にいて、そこでの時間や人間関係に埋没していると、それだけの人間にしかなれない。与えられる情報は限られるし、どこかでみんなと合わせてなくてはという、同調圧力で、自分を磨くチャンスと出会えないからだ。
 
唯我独尊。自主自立。孤独を恐れず、自分を磨くことに徹することのできる奴だけが、世代を越えて、深い芝居ができるようになる。
 
これ、頭ではわかっても、実際にやるとなると、なかなか難しい。大方、セリフをいわせると、セリフに厚みと深みが出ない。
 
経験を積めばなどとアホなことをいう演出家がいるが、経験主義で芝居がやれたら、だれも苦労はしない。経験のないところで、それができるから俳優なのだ。
 
大方、登場人物の脚本分析をやったり、心情解析をやったり、成育歴を想像したり…。そんなアホなことをやるから、結局は、経験主義に陥るし、文学的な理解で芝居をやることになる。書く方には必要でも、演じる方にそんなものは、いらない。
 
台本や脚本など、単なる下書き。それ自体は、芸術としも、作品としも自立しえない。オレのいう、譜面に過ぎない。俳優という楽器があって、演出という指揮者がいて、観客という聴衆がいて、譜面は三次空間にも四次空間にもなり、作品足りえる。
 
読みが=音がとれなくなっているYに、大学の授業でやっているという「アンネの日記」をやらせながら、ダメだしをし、改めて、そんなことを語る。飯は、REDのバーガー、ステーキか、コレドのすき焼きがいいかと聞くと、すき焼きが食べたいという。
 
オーナーのMさん大得意のすき焼きにYが超感動していると、またもや海坊主と遭遇。こうも遭遇するものかと思うが、海坊主がいると片割れがいるような感覚になってきている。
 
オレの女性同伴がこのところ増えて、錆びたと批判していた奴も納得だろう。が、しかし、どうこういう関係でもないし、どうこうしようという気持ちもない。オレが若い奴らと飲んだり、飯をしたり、たまにどこかに出かけるのは、オレ自身が世代の中に埋没しないためだ。
 
若い奴らだけでなく、オレたちのような中高年ほど、世代を越えなくてはいけない。