秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

いわきの場

石炭産業で繁栄した町が持つ独特の佇まいやにおい…。終わってしまった繁栄のあとにある凋落が生む哀愁…。それでも前へ進むために受け入れていかなくてはならなった、システム変更とそれへのあらがいの跡…。
 
農業以外に、漁業と水産加工を地域産業とし、人々が成長する中に絶えずある海の風景とそれが生む、海があることを当然とする生活、地域行事や伝統芸能があり、ゆえに、語り継ぎ、守るべき海がある…
 
いわきを初めて訪れ、その被災の現実に愕然とし、それに深く心を揺さぶられて、刻み付けたのは、おそらく、その二つがいわきにあったからだと思う。

また、震災後、原発避難地域や警戒区域にすぐ隣接した大きな町であるがゆえに、引き受けなければならなかった、原発事故復旧の前線基地、避難住民の受け入れ地としての姿…それは、戦後、米軍を受けいれ、地域に地域以外の人間が当然のように生活する基地の町が経験した姿と重なり合う。

幼稚園に上がる前、オレは三井三池争議で騒然とした、炭鉱町、大牟田にいた。その後、米軍の戦闘機の爆音が夜をつんざく、板付基地(現福岡空港)そばで生活した。そして、九大教養学部のある、西新の海に近い、六本松で過ごし、そこから、かつて炭鉱景気で大繁栄していた門司港から少しいった、石炭の積荷港のあった裏門司といわれる、もはやさびれた漁師町で小学校を卒業した。

中学1年から高校2年の夏まで、白木原、春日原にある米軍基地の近くで過ごし、高校3年のとき、やっと自分が生まれた黒田城赤坂門に近い、高宮に住んだ。そして、そこからは東京の暮らしになった。

その間に、オレが見聞きしてきた福岡の姿…それが、いわきの姿とあまりに重なっていたのだ。

そこにあったのは、一つの正義だけでは通じない生活の不条理だった。一つの正義が通じない中で生れる、理不尽さだった。その中で、人は何を頼りにして、何を基準して、いまをそして明日を生きればいいのか…という問いだった。

漁師町の男たち、炭鉱のある町とその周辺が持つあらくれた空気感だった。そのあらくれも通じない、基地の町としての矛盾と葛藤だった。そして、それをどう生きるのか…という問いだった。

昨夜、東京在住のいわき出身の方たちがfacebookでつながった、新年会に参加させてもらった。会長のSさんがいった。震災後、自分たちの場、いわきの場が必要だった…

初めて会う方たちの中で、しかし、そこでも交わされるジョークやノリは、いわきへ行ったときも感じるのと同じように、やはり、オレが経験してきたそれと似通っている。

自己紹介をしようと狭い店で一列になり、ひとりひとり、出身中学から話し始めるのも同じだ。中学のどこを卒業したかで、どの地域の人間で、どういう風景で育ち、どのような性格やノリなのかが大体わかる。地域のなかでそれぞれに特徴があるからだ。いわきに行くようになってから知ったことだが、これも福岡と同じなのだ。
だが、その自己紹介ひとりひとりにいわきへの思いがある。

今日、仲間の事務局長のSさんが、オレが歳になって、出身地の二文字目、岡と島を間違えてしまうようだ…と冗談をFBに書き込んでいたw だが、確かに、ジョークでだけではなく、オレは、いわきに出会ったときから、そこに自分の心地よさを感じている。話の近さを感じていた。

福岡を出たときとは、比べものにならないほど、福岡は変貌し、なつかしい店や風景も少なくなっている…もしかしたら、それをオレはいわきにみつけているのもかしれない。