秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

浜中会津

昨日、いわき市から戻ってすぐ、高校の東京同窓会の仲間と、PCでの案内状の宛名作成を後輩のYさんに任せたまま、あれこれ話をしていてふと気づいたことがあった。
 
すると、今日、MOVEの仲間で、ひと筆書きをやっているSさんから、いわきを象徴するようなもので、ひと筆で描けるものは?…という質問がFBにあった。いわきなら簡単。いくらでも思いつく。しかし…。いやいや今年から福島県全体の支援へ拡大するのだから、福島をイメージするものをと注文をつけながら、あらら…とそこでまた気づいた。
 
オレは福岡市生まれ。その大半を市内で過ごしたが、おやじの転勤で、三井三池炭鉱のある大牟田、北九州の門司、そして福岡市にほど近い、大野町(現大野城市)で生活した。中学の剣道部の試合で、志賀島や築山などにもいった。そこでいつも思っていたのは、市内から離れてしまうと、方言も多少違っていれば、生活意識も違うということだ。流派があるわけでもないのに、剣道の太刀筋も違っていた。
 
もっといえば、福岡市やその周辺の人間に福岡県民意識があるかも疑わしい。筑豊などにいくと気質もだいぶ違ってくる。門司などは、方言がまったく違っていて驚いた。
 
今回、改めて、福島を横断した。福島県は東京を軸に三筋に地域が異なっている。導線が縦につくられている分、横断にはすこぶる不便にできている。交通機関はバスしかない。地元のマスコミでは、この三筋を浜中会津という。実際、福島県内でテレビをつけると、地元の元気予報は三か所別々に伝えられる。それほどに会津中通り浜通りでは気候が違う。
 
人々は、普段、ほとんど意識していないかもしれない。しかし、江戸三百年の藩政の時代に比べたら、明治以後廃藩置県で現在のような都道府県の区割りになって、たかだか百数十年にしかならない。オレのたちの地域意識や生活感覚には、藩政の時代に植え付けられたものの方がはるかに深く浸みこんでいるのだ。それが同じ県でありながら、オレが福岡で感じるような違いを生んでいる。
 
もちろん、それはそれぞの地域が持つ、気候風土が大きい。だが、藩政の時代、いろいろな藩主や時々の藩政を担う者たちが、地域の伝統工芸や特産品を掘り起し、磨き、交易の材料として藩政を支えようとして育まれていったものだ。そこに地域共同体の枠組みもつくられ、鍛えられてきた。精神文化、教育といった地域性だ。会津に遺る「什の誓い」ならぬものは、ならぬのです…もそうしたもののひとつ。

それを考えると、福岡県が一枚岩ではないように、福島県も一枚岩ではない。だが、福島県は他の都道府県とは格段にその違いが大きい。戊辰戦争で最後まで抵抗した奥羽越列藩同盟、とりわけ福島への分断政策は意図して行われた。その後の自由民権運動福島県内の広がりがそれに一層拍車をかけた。福島の各地域は中央政府によって、横のつながりを意図して遮断されたきたのだ。
 
福島県の県庁所在地福島市も計画的につくられた県庁所在地。本来、県庁所在地は藩の城下町につくられる。しかし、福島県抵抗勢力会津の力、会津に呼応し、列藩同盟に参加した白河藩磐城平藩相馬中村藩などの影響のない場所、およそ、こんな不便なところにという場所に、県庁所在地を置いた。そして、それらの地域から、自由民権運動も起きている。それが一層福島を中央政府のある東京の監視下に置くため、横の連携を分担する導線配備につながったのだ。
 
そして、県内での連合の難しくなった地域間連合の取り組みは時代と共に希薄になった。県として一枚岩にしようとしても、それぞれが藩政当時の意識に戻り、現実には一枚岩と呼べる状態ではない。
 
福島で何事かをやるには、この地域それぞれの特徴と歴史的事情を踏まえなくてはいけない。しかし、それが唯一、一枚岩に結実したときがある。それが戊辰戦争自由民権運動。もしかしたら、反骨において、福島は一枚岩になれる土地なのかもしれない。ならば、いま震災、原発事故被害と風評被害の只中にある状況は、好機に変える時節到来ともいえるのだ。
 
浜中会津の人々に会うと、地域のこれからを真剣に考える若い人たちは、どの地域の人も同じことを語る。「だから、これをチャンスに変えなくてはいけない」