秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

すべてはそこにかかっている

子どもの頃、通知表に、注意散漫とか、落ち着きがない、協調性に欠ける…といった指導コメントをもらった人は少なくないだろう。
 
大方、まともな子どもなら、押しなべて、注意散漫であり、落ち着きがない。個性がつよければ、協調性だってないに決まっている。
 
だが、大人たちは、自分の子ども時代のことを忘れ、子どもに大人が対応しやすい姿を要求する。すなわち、いい子を期待する。いい子という基準や枠組から逸脱することをいけない子、ダメな子とレッテル付することで、いい子の増産をやろうとする。
 
人という存在は、セックスもすれば、うんちもする。人をうらやましがれば、人よりいい状況でいようとする。ストレスが溜まれば、人を傷つけ、自分に不利が生まれれば、言い逃れや言い訳、ごまかしをし、それがごまかしとは気づかないほど、自分を正当化する。ことほどさように、そもそも人は、不条理な生き物だ。

いい子なんてもんは、そもそも存在しやしない。求めている大人がそもそも、いい大人であるはずがない。にもかかわらず、成立しようもない、だれが決めたかもわからない正義などいうものを持ち出し、いい子のふりをしようとし、いい子のふりをさせる。
 
結果、反省や内省のできない、バカ大人が量産されることになる。
 
つまらないマニュアル教育ばかり受けているから、問題が起きると、マニュアルをつくり、それで満足する。古今東西、どのようなマニュアルをつくろうが、運用する人間がそれがなぜ必要なのか、何のためにそうあろうとするのかといったものが見えていなければ、それは、自分を満足させるためだけのものでしかない。必ず、また間違いを起こす。
 
人というのは不条理で、そもそもダメな存在で、マニュアルなんてもんは、筋道や道理やなぜなのか…といった自己探索と内省がなければ、ゴミどころか、邪魔にさえなるということがわかっていない。

オレも小学生の低学年の頃は、しょっちゅう、注意散漫、落ち着きがないと書かれていた。それを越えたのは、物を考え、つくるというトレーニングだ。集団の中で、それをやることで生まれる責任感だ。物を考える。なにもないところで、自分の頭をつかってつくりあげる。それがあれば、いろいろなダメさというのは乗り越えられる。
 
責任感というのは、簡単に物事を処理しないこと。結果的にそうしたことが必要になったとしても、それまでの過程で、深く内省し、自己探索をすることだ。
 
他者への深い思いも、言葉づかいも、時に、叱咤や鞭撻といった厳しさを出せるのも、それがあってのこと。
 
のような気になっている人間でも、その人に使命と役割があれば、のような気になっている自分に必ず、それを考えさせられる問題が起きる。それを謙虚に、真摯に、自己愛を捨てて、向き合えるか…それにすべてはかかっている。