秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

やっと

イベントの残務整理が明日いっぱいで大方終わる。オレの体調の回復と同じペース。このあと、経費面での調整作業等は残っているが、今月中の会津大学を始め、今回参加いただいた団体とのIT事業への協力要請へとコマを進めることができる。

少し時間がつくれるようになってきたところで、うちの自主作品の台本制作へも突入する。
 
昨年の「大いわき祭」のときも言葉にできない、いろいろな思いがあった。そして、今回震災から1年半以上が過ぎ、あらたに言葉にできない、いろいろな思いも生まれた。
 
芝居でも映画でも同じだ。作品の質や良し悪しは、ある意味、天分の力と技量といったもので大方は決まっている。だが、それがいい作品として人の心を打つには、そこに気持ちや思い、願いといったものを込められていなくてはいけない。その思いというのは、簡単にひとことで言いあらわせるものではない。
 
言葉で簡単に言い現わせられることなら、評論や宣言文を書いて、それを告知することに奔走すれればいい。シンポジウムをやったり、討論会や研究会をやればいい。
 
そうした、理屈や理論だけではどうしようもないこと。ことの善悪や正義や不正義といった物差しではどうしようもないこと。そうしたものと向き合って、何事かを形にしていくというのは、言葉で簡単に言い表わせないからやるのだ。
 
だから、そこに、構成や展開というものが必要になり、台詞というものが生まれるし、そこに生理が生まれ、感情の屈折や爆発が生まれる。芝居や映画でいえば、そこにさらに、役者の身体、身体がもつ生活感といったものが織り込まれる。
 
イベントでいえば、地元の踊りであったり、唄であったり、そこにある地域というものの身体性と生理がなくてはいけない。それも言葉ではなく、音や踊、響きといったものだからこそ、伝えられるもの、伝わるものがある。

このところ、そうした思いや願い、寄る辺ない心といったものを持たない作品が目につく。いや、持っているつもりではいるのだろう。だが、時代のトレンドやちょっと風変わりな装いを計算に折り込んで、それをやろうとするからいいものにならない。
もっと最悪なのは、自分たちの満足や自分の満足、何かの欲求を満たすために、それをやっているものが多い。聞きかじったことで作品はつくれる。だが、それは所詮、それだけのものでしかない。

いわきや福島のことに取り組んで、やっと1年9ヶ月が過ぎて、やっとオレは福島をテーマにした短編作品に着手できる自分にならさせてもらった。本質を描こうとすれば、すべてに時間はかかる。その手間暇を惜しんでいては、扱う題材にも、人々にも失礼だと思う。