秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

新しい役

この数日、息もつかせない、目の回るような忙しさの中にある。ということは、このブログを読んでいただいている方には一目瞭然だろう。
 
昨年の大いわき祭直前もそうだったのではないかと思う。
 
今回、参加自治体や団体を福島県全域に広げ、さらには他の東北の一部地域にも参加してもっている。そのため、連絡業務や書類関係のとりまとめが昨年の3倍にはなっている。また、MOVEメンバーで出店にまわった有力なスタッフがいて、開催運営の部分の人手と数が昨年より少ない。そこを今回は学生ボラティア諸君の熱意に頼っている。
 
それでも、中心軸のラインはどうしてもオレがつくらなくてはならず、時間がない日々が続いるのだ。
 
そうした中、いろいろな人たちの顔を思い浮かべながら、また、それぞれの事情も勘案しながら、役割を振り、調整し…ということをやっている。
 
昔から思うのだ。人には、人それぞれの役割というものがある。本人の熱意や思いとは別に、人には、役というものがあると思う。
 
よく俳優にいうことだが、だれもがスタープレヤーをやれるわけではない。かりにやれる能力や才能があったとしても、そうした場を与えられ、生かせるかもわからない。
 
スタープレヤーではないが、この役はあの人しかいない、いなかった…と思わせるようなプレヤーになるには、人目につくとか、つかないとか、それをやると顔が売れるとか、名が売れるとか、考えていてはなれないものだ。
 
そういう思いでいると、自分の望む役でないと、不満や不平が出る。出るばかりでなく、不満や不平がいつか、自分から自信さえをも奪っていく。この役なら、オレに、私にまかせて…という自信を持てるのは、そこに不満や不平がないからだ。
 
改めていうが、人には役がある。それは、その人が生まれながらに持ってしまったものだ。よく役を生きるとか、役になりきるといった言葉を聞くが、そんなことは鼻から不可能。あらかじめ定められた自分の個性や外見がすでにその人の役を決めている。
 
ないものを生きるのでもなく、ないものになりきるのでもない。自分というものがどういうものであるかを謙虚にわかり、その自分に生れながら与えられたもので、どう勝負するかを考えるしかない。きつい言い方だが、美形でなにものが美形の役はできない。身長の高い役を身長の低い人はできない。あえてやるとしたら、美形ではない自分が美形であろうとしてる姿で、美形であることを演じるしかない。なろうとする見える美形ではなく、見えない美形を生きることだ。

今回、「福島・東北まつり」の開催と運営にかかわる人は、おそらく100人を超える。その中で、MOVEメンバーでかかわれるのは20名ほどだろう。協働してくれる団体がいなければ、できないことも今回は多い。
 
それは、これからのMOVEの姿を象徴している。オレたちひとりひとりも、そして、MOVEも、与えられた新しい役を演じるときが近づいている。
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