秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

火中の栗を拾う

人がいろいろな困難や試練があっても、なんとか自分を保ち、元気を出そうとし、前向きになれたり、道を拓こうとできる力はどこから生れるのだろう。
 
人がいろいろな不満や不平を持ち、だれかをなにかをただ否定し、批判し、非難するのではなく、とらえ方、見方、考え方ややり方を変えれば、否定や批判、非難の対象であるものを力に変え、包み込み、力を合わせられる道があるかもしれないと考え、行動する力はどこからつくられるのだろう。

それはすべて人とつながりるということの底力だ。自分を受けいれてくれるだれかの懐の深さ、認めて分かち合う仲間の笑顔や悲しみを共に涙してくれる友の顔だ。
 
国や社会や地域のことをいろいろに議論するにせよ、そこのことが何もみえていなければ、人と人を結びつける力、物事を動かす力は生まれてこない。
 
どのように理にかなったシステムをつくってもそこに関わる人のつながりの心地よさがなければ、人と人を結ぶネットワークへとは発展しない。
 
facebookというソーシャルネットワークがこれほどまでに世界を席巻したのも、ツイッタ―が情報の共有に貢献しているのも、そこにかかわることで、不具合よりも心地よさが増しているからだ。

心地よさというのは、人とつながることのおもしろさ、楽しさ、そのことによってえられる新しい学びであり、簡単にいえば、わくわくするような何かがそこにあったからなのだ。思いを語れば、それに同調、共感してくれる人たちがいるという現実を実感できるからなのだ。

今月は、オレがMOVEという団体をつくろうと考え、その目的としていたネットワーク事業を進めるためのいろいろな会合と会議、意見交換の時間にしている。

限られた予算、限られた人材、限られた時間の中で、なにができるか…そのマイナーなところに目を向ければ、外から聞こえるいろいろな情報に振り回されることもあるだろう。

いままである既存のネットワークイメージから自由にならなければ、自分たちにできることの限界が先に見え、道を拓くことが容易ではないと正面突破よりも迂回する道はないかと考えるかもしれない。

そこでとどまるしかないなら、あえて火中に栗を拾う必要はない。
 
そもそも、福島のために、まったく福島と縁のない人たち、関心のない人たちに福島を愛せよといっても届きはしない。あるいは、自分たちが思うこれなら福島のためになるだろうという思い込も、福島の人たちにとってはどうでもいいことかもしれない。そうした疑う気持ちが自分の中にあるなら、やらない方がいい。

人と人が結びつく心地よい場所があれば、人はおのずと動き出す。facebookがそうであるように。場の心地よさをつくる。つまり、心地よいつながりの町をつくる。その最初の当り前にどう取り組めるかを考え、道を探る困難を越えていけないなら、やる意味はないのだ。

 
人の知恵を集めて、つながる人の可能性を信じなければそれはできない。だが、震災後の支援事業や大いわき祭を通じて、福島・東北祭りを通じて、オレはいままで出会わなかった多くの福島の人たちと出会い、思いを共有し、ひとり一人の方をまるで、同郷の友、仲間、親戚縁者のようにふれあう楽しさを知った。

そのつながりと出会った人の力をオレは信じている。自分や自分たちの想像力では埋められないものも、オレが知る、その人たちひとりひとりの力があれば、道はつくれると確信している。
 
写真は昨夜会合のあとの飲み会。この人たちなら、ギアをいれればやれるw
イメージ 1