秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

明日を拓く力

たとえば…オレが卒業した中学校は、白木原・春日原といった米軍の駐留基地のそばにあり、ジェット機の騒音や駐留米軍の家族の姿をよく目にする…といったことをのぞいては、福岡市郊外のとりわけ特徴のない学校だった。
 
同級生の姉は、駐留米軍のオンリー(情婦)をやり、奴の家庭の生活は姉と姉の彼氏のおかげで成り立っていて、「今度うまい缶詰、持ってきてやろうか?」などという会話が、まるで戦後間もないころのように子ども同士で語られていたことをのぞいては…。
 
だが、その中学校の吹奏楽部は九州大会で優勝し、全国大会に出場するレベルのものだった。ひとりの男性音楽教師の厳しい指導と訓練の中で、生徒たちは自らの技術を上げるためにその苛酷な練習に黙々と取り組んでいた。その中にオレの親友もいた。
 
その素晴らしいアンサンブルとテクニックは中学生のレベルをはるかに超えていた。そして、吹奏楽部があることが、剣道部にいながら、音楽好きのオレにとっては中学時代の大きな自慢だった。九電ホールでの学生コンサートでの演奏は高校生、大学生を凌ぎ、圧巻だった。
 
だが、それを生み出したのは、たったひとりの音楽教師の音楽への情熱とその情熱によって吹奏楽の楽しさを知った30名ほどの生徒たちがつくったものに過ぎない。だれかがその教師にコンクールで勝てる吹奏楽部をつくってくれと頼んだわけでもなく、だれかが生徒たちに吹奏楽を強要したものでもなく、帰宅時間が遅くなる練習を強制したのでもない。
 
オレが進学した高校は、元女学校で歴史は古かったが、県立のそう難易度の高くない高校だった。これも福岡市から西鉄電車で30分以上のところにあり、とりわけ特徴のある学校でもなかった。
 
その高校の野球部が、あれよあれよと勝ちつ進み、九州大会決勝まで進んで準優勝した。そして、春の選抜甲子園に出場した。だーれも予想だにしていなかったw 無名の県立高校が突然、選抜甲子園に出場する。地域で屈指のアンダースロー投手がいたにせよ、それは奇跡に近かった。だから、だれもこれが続くとは思っていない。しかし、それは無名の県立高校の当時の生徒たちにとって、無名でもなにかやれるという自信を与えたと思う。
 
そして、翌年の沖縄返還の年には、セクトに所属していない生徒たち、政治や社会に無関心で、帰宅部を決め込んでいた連中やヤンキーな連中までもが生徒総会を欠席しなくなっていた。突然変異のように、あの一瞬、オレの高校は変わった。高校3年のあの記憶をきっと多くの同級生たちは忘れていないだろう。
 
それもだれかが生徒たちに強要したわけでも、強制したわけでもない。ただ、望んだのは自分たちが「自由である」ということだ。無名であることで起きる諦めや過去の実績がないことで未来を放り出すのではなく、自分たちがありたい自分であろうとすること。教師や学校の規則や決まり、常識に縛られてうつむいている自分ではなくなること。
 
そのために、いま自分が思うことを発言し、行動した。そして、それが二度とえられない貴重な体験と実績を生んだ。
 
卒業後、オレは大学受験浪人時代と進学してからも、高校の演劇部に脚本を提供し、教育実習で母校の教壇に立つときまで、演劇コンクールの指導を続けていた。そこで後輩たちに伝えたのは、そのことだ。
 
うちの高校の演劇部はオレの在学中も含め、6年間、地区大会突破もできていない学校だった。「コンクールに何しに来たんだ?」と全国大会出場常連のライバル校の連中にバカにされたこともある。
 
その悔しさを越えて、自分たちもやり方ひとつで全国大会へ出場できるのだという自信を後輩たちに持って欲しかった。そして、オレがかかわっている間、地区大会を連続して突破、最後の年には九州大会まで進んだ。同時に、それは、オレの学力では到底合格できないといわれていた大学への挑戦を果たす行動と重なっていた。
 
それも、オレがだれかに頼まれたわけでも、生徒たちが強要されたわけでもない。きっとコンクールを突破できる。その夢と希望を信じ切っただけのことだ。
 
そして、まだ若かったオレは自分の確信と自分の才能を信じ切っただけのことだ。
 
毛沢東がいった言葉がある。「何事かをなすために必要なこと。それは、無名であること、若く、貧しいこと」。明日を拓く力は、じつは、そこにある。
福島の人たちに、若い人たちに、その言葉を生活の中で実現してもらいたい。決して、あきらめることなく、腐ることなく、何ものにも縛られず、利用されず、自分たちの新しく、美しい福島をつくりあげてもらいたい。