マイ縄跳び
「今回は30人も応募があって、そのうち3分の2は女性ですよ」という言葉に、間髪入れず、「オレ、やる。ボクシングやる!」w。新しくなにかをやる、きっかけなんて単純なものだ。「いやぁ、オレ、秀嶋さんに言おうと思ってたんすよ。ジョーやるんなら、ほんとにボクシングやりましょうよって」。
オレがあまりに勢いよく「やる!」といったものだがら、同席していた人のいいYくんも「オレもやりますよ」とつられてしまったw ということで、Yくんと二人してTのレッスンに通うことになった。
どうもTの話を聞いていると、オレがやっていた剣道やフェンシング(サーベル)とボクシングは共通点が多い。小学生のときやった空手にも共通する。いずれも格闘技だから、当然といえば、当然。
一見、感覚人間で感情から動くように見えるTだが、じつは、論理的な人間だ。まさにレッスンは理論と経験をうまく結びつけて、素人にもわかるように工夫している。レッスンを始めて8年。試行錯誤の中で、たどりついたメソッドなのだろう。からだで覚えられない年齢のいっている連中には、論理的でわかりやすい。
しかし、小学生以来と思うが、2分間の縄跳びでも苦しいし、続かない。動きは激しくないが、インナーマッスルを鍛える基本訓練はそれなりに負荷がある。
人に指導されながら、できないながら素直に指示に従い、からだを動かすといのは、やはり、気持ちいい。流れる汗が、いい汗だと叫んでいる。いい汗というのは、拭ったときの顔がじつにすっきとしている。まがりなりに、剣道や乗馬をやってきた人間として、いい運動、いい汗とはそういうものだと思う。
社会である程度の年齢になり、仕事をこなし、周囲に多少なりとも影響を持つ立場になると、未知のことを素直に学ぶ…ということが少なくなる。だが、いくつになっても、その素直さは忘れてはならないことなのだ。
社会である程度の年齢になり、仕事をこなし、周囲に多少なりとも影響を持つ立場になると、未知のことを素直に学ぶ…ということが少なくなる。だが、いくつになっても、その素直さは忘れてはならないことなのだ。
歳下であろうが、苦労の違いや経験の違いはあろうが、ひとつことで自分より確かな専門性のある人間には、教えを乞う、道を尋ねるという姿勢はなくしてはいけないと思う。
オレがオレが…とか、オレは年上だのだから…とか、ふんぞり返っている奴は、歳を重ねるほどに、その軽薄さや愚かさが周囲の人ににじむ。つまり、見透かされる。ああ、こいつは歳はいってるが、大した人間じゃない…そう見限られてしまう。自分のそんな傲慢さや驕慢さを糺してくれるのは、年齢を重ねると年長者ばかりではなくなる。
若い連中の言葉に素直に従い、行動する。その姿勢がなくては、自分の傲慢さや驕慢さを変えてはいけない。年長だから優秀な人間などひとりもいやしない。未知なものを知る人はいくらでも自分のまわりにいる。それへのリスペクトを持ち続けられる奴が、いつまでも、未知を楽しめ、心を自由にしていられるのだ。