秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ありがとうございます。

昨夜のNHKスペシャル。深く、胸を打つ内容のドキュメンタリーだった。「最後の笑顔ー復元納棺師が描いた東日本大震災」。
 
岩手県宮城県を中心に震災直後、津波被害によってひどく傷ついたご遺体が多数収容されたことは報道で多くの人が知っているだろう。オレ自身、いわき市、そして石巻市にいったとき、そうした話を助かった人たちから直接聞かされた。涙なしに、聞けない話も少なくなかった。また、無残さに胸が痛む話もあった。実際に震災後ひと月近く経っていても、津波被害のあった周辺には、まだ異臭がしていた。
 
その震災直後から死体安置所になっている場所を訪れ、亡くなった方の顔の復元をボランティアでやっていた女性がいる。日本でも数少ない「復元納棺師」という仕事に就いている、おくりびとの笹原留似子さん。40歳。彼女が震災後復元したご遺体は300体にも及ぶ。

津波での損傷の激しい子どもや母親、父親の遺体を遺影や生前の写真をもとに、復元していく。そのとき、笹原さんが気を付けているのは、笑い皺だという。人それぞれ、その笑い皺は違う。「その方が生きてきた証のようなもの…」。彼女はそういっていた。
 
彼女の復元の基本にあるのは、生前の笑顔に近いものにすること…。やさしい親の顔を生き残った子どもたちの記憶に遺してあげたい。かわいい子どもの笑顔を生き残った親や祖父母の記憶に遺してあげたい…そのために、ご遺体一体に2時間以上もかけて復元に当る。

遺体回収が落ち着いてきたいま、彼女に復元を依頼する家族も少なくなってきた。彼女は、そのときから、自分が復元したご遺体ひとりひとりの笑顔を愛らしい水彩画にして遺そうとしている。そして、その絵の脇に、復元して、対面した家族の思い、言葉…そして、彼女自身の願いや思いも文章にして、添えている。
 
一枚の復元された笑顔とわずかばりの記憶の風景文字の中に、それぞれの家族の温かさ、そして、亡くなった子どもや親への感謝と明日へ向けて生き抜こうとする、せつないけれど、愛に包まれた世界がある。
 
彼女が唯一、いまでも後悔しているのは、身元不明の4歳の少女のことだ。身元不明のため、遺族の確認がとれず、陥没した顔の復元をしてやれままで終わったしまった。それを、彼女は復元していたら、こんな笑顔になっていたろうと水彩画にし、その脇に、ごめんね…ごめんね…という言葉を添えている。復元してやれない少女をだれもみてないとき、しっかり抱きしめてあげることしかできなかったという…
 
笹原さんが、どういう経緯で復元納棺師という職業についたのか、そして、震災後、どうしてボランティアで損傷の激しいご遺体、とりわけ子どもの遺体の復元に率先して当ったのか…調べてみると、幼少のとき、キリスト教の日曜学校に通い、マザーテレサを尊敬していたという。その後、神道の巫女になり、重病体験を経て、病院の看護関係の仕事をしていた。その死をみとる体験の中から復元納棺師の道へ進んだらしい。
 
しかし、家族ですら、ふれることをためらう、変わり果てた遺体の復元に、他人の、しかも、いかにそれが本業とはいえ、ボランティアで何かに突き動かされるように取り組む姿は、感動を越えて、ただ頭が下がるばかりだった。

亡くなった子どもや親の生前のままの笑顔を前にし、すべての方が彼女に、心から、「ありがとうございました」と涙ながらに礼をいう。それに応える彼女の言葉は、番組の中でどれも同じだった。「とんでもございません…」。

人のために自分にできることをやる。ささやかでもやる。その思いは、お礼の言葉や何かの代償を期待してではない。失われたいのちへの思い、残された人々のいのちへの思い…どのような困難と悲しみの中でも、それぞれが持ついのちの輝きを大事にしたい。そのために、できることをやらせていただく…。その心根だけしか、あの環境の中を地域の人々と共に歩むことはできない…と思う。
 
いわきと初めて出会ったときの、あの思い…そして、その後、いわきのためにできることと考えながら、いろいろな壁や障害の中で、それでもやり抜こうとした思い…それをまた改めて、教えていただいた。笹原さん。ありがとうございます。