秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

置き去りにしてはいけない

いわき駅から富岡町に到着するまで、激しい雨が続いていた。カメラが雨に濡れてしまう…そんな心配をしながら、線路がセイタカアワダチソウに埋もれた駅に到着。
 
雨と風の音、それに倒壊した家屋の風できしむ音…遠く聞こえる波の音を聞きながら、ひとり、雨の中、カメラを回す。前回は三脚も、ワイコンも使ってなかったが、今回は、作品にも使えるようにと、重い機材をひとりで抱えてきた。
 
前回、初めてきたときもいろいろな思いがよぎったが、今回は作品にまとめようと明確な意図あってきたせいか、より様々な思いがファインダーをのぞきながら、心をめぐった。
 
不思議なことに、この風景が伝えている人々の聞こえない思いをきちんと撮りたい…そう、謙虚な気持ちでカメラを回していると、いつか雨がやんでいた。
 
しばらくすると、車が二台、近くに駐車した。汚染防止の使い捨ての防護服を脱いでビニール袋にまとめて、中年の男女が車を降りてきた…。声をかけてみると、富岡の立ち入り禁止区域に住まいのあるご夫妻とその友人の方たち。
 
数カ月に一度、家の清掃にきていて、今回は東京の友人も手伝いにきてくれたという。2年8ヶ月が過ぎて、避難先での生活、新しい日常が始まっている。
 
それを聞くと、「もう、戻れないと思っています。あと5年といった言葉も聞くが、避難先での生活が始まってしまっている。だから、それも難しいと思っています…」という言葉が返ってきた。

これは富岡町に限ったことではないだろう。いまいわきに生活し、大熊町に実家のあった複数の友人も同じことをいっていた。

富岡駅にほど近い海岸線には漁港や市場もあった。それも津波ですべて流されてしまった。3.11の避難のときには、非番だった警察官も最後まで町民の避難誘導に当たり、パトカーごと流され、その一人の遺体はまだあがっていない。

その慰霊碑があるというので、前回いかなかった海岸近くまでいく。途中、人の生活の空気が残る駅周辺の無人の佇まいを撮影していると、巡回中のパトカーがそばを通っていった。
 
巡回する警察官たちの心にも無念の思いがあるに違いない。いま、一部立ち入りできる地域になって、空き巣に入る心無い人間がまだいるのだろう。無念さはそのために幾倍にもなる…。
 
震災前、16000人近い人たちが、ここに生活していた。その残り香が半壊、倒壊、全壊した家並みの中にある。そして、ここは、いまでも福島第二原発の町。
 
小学校が2校、中学校も2校、そしてサッカーで有名な富岡高校があった。JビジレッジにあるJFA福島のスポーツアカデミーと連携して、スポーツ学科が設置され、プロサッカーを目指す選手のほか、スポーツ特待生を育てていた。現在、サッカーをやっていた彼らは静岡県三島長陵高校に移っている。
 
富岡町役場は郡山市に移転。住民もいわき市福島市郡山市などの借り上げ住宅や仮設住宅、親族や縁者を頼って全国各地に点在している。

ここは原発放射能汚染のため、その近在にすら同じ町を回復することは難しい。豊間、薄磯、久ノ浜でも、復興住宅や代替え地ができても、そこにどれほどの住民が戻ってくるかは確かではない。まして、原発避難地域となったエリアではなお、その数は不確か。
 
その中で、高齢者や子どもたちを中心に、人々の喪失感と不安の傷はいつまも続いている…。原発の補償でこれまでいい思いをしていただろう…その思いが、避難した先での住民との軋轢や対立を生んでいると聞く。仕事や先々の不安で、子どもへの気配りまでいかないという若い家庭も少なくはない。

いま児童相談所への子どもの虐待通報は、全国で福島県がトップになっている。親族里親に出されたり、里親に出された子どもが受け入れ先の家庭で、突然泣き出す、暴れるといったPTSDの症状を示す。それへの対応を知らないために、虐待、もしくは虐待ととられてしまう行動を里親がしてしまう。

実の親ですら、震災後、うつ状態になっていたり、補償に頼らなくては生きられないという家庭もあるのだ。
 
その中で、子どもたちの心の回復を置き去りにしてはいけない。震災直後から警鐘してきたことだが、富岡町の風景をみつめていると、ますますその思いが深くなる。
 
そうした中で、豊間小学校の子ども映画祭りのような取り組みは、ひとつの方向性を示してくれている…