秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

思いを聴き、思いを伝える

語る人によって、物事の伝わり方が違ってしまう…ということはよくある。同じ内容の話をしていても、発言する人の人柄によって、その受け止め方が大きく変わるといってもいい。
 
が、しかし。こういうことをいうと、また、小賢しい輩は、「そりゃ、そうだ。プレゼンターのテクニックがプレゼンを左右することもあるのだから、そのスキルの差によって伝わり方が変わるのは当然さ」と、シタリ顔をするだろう。
 
あのね。私がいいたのいのはそういことではないのよ。プレゼン慣れした、小賢しいおバカさんたち。こういう輩が、一番始末が悪い。自分の発する言葉や情報は相手に届いているはずだ。だって、ぼくらは、いつもそれを意識してプレゼンを訓練してるんだもん…みたいな調子だからだ。こういう人たちほど、専門的な用語をやたら使い、横文字を並べたがる。そして、日常生活の中で、自分はコミュニケ―ション能力が高いのだ…と錯覚している。
 
確かに、人に何事かを伝えていくのに、テクニックはないより、あった方がいい。しかし、ありきたりで、マニュアル化されたようなことばかりで人の心を強く動かくことなどできはしない。もし、そうしたことがうまくいっているとしたら、そこに金や地位という物理的欲求と関心を呼ぶものが中心にあるからに過ぎない。あるいは、最初から聴衆がなんらかのリスペクトをこちらに抱いているときだ。
 
数日前の家庭教育の研修セミナー。質疑応答で、ある母親の方が、娘とその友人の関係の悩みを相談された。友人の方は、親に隠れてリストカットをやっている。学校ではいじめに遭い、教師までもが学校に来ない方がいいとまともな相談にのってくれない。行き場のない彼女は、その母親の娘の人の好さに甘え、放課後、娘に塾があっても、一緒にいて! 見放さないで! と精神的にしがみついてくる。夜でも長電話がある。
 
帰宅がいつも遅く、次第に疲れ、落ち込む娘を心配し、母親は、友人の親に相談した方がいい。子どもだけで抱えられることではないから。お母さんが相手の親に会って話してもいい…といった。
 
が、しかし。娘は、友人は絶対、自分の親にはいわないでくれといっている。それを裏切ることはできない。そんなことをしたら、またリストカットをして、とんでもないことになる。お母さんは何もわかってないのよ!…とかえって反発されてしまった。

事情を聴きながら、講師のMさんがいった。「ちゃんと娘さんと話し合っているんですか? 気持ちを聴いてあげてますか?」。母親は、「ええ。聞いてますし、話し合いもできてると思います。これだけ事情がわかるくらい、友だちのことを詳しく聞かせてくれますから」。
 
講師のMさんの眼がキラりと光ったw 「あのね。どういう気持ちで娘さんの話を聴いてあげているか。心をどこに置いて、話をしているかで、伝わり方もつながり方もまったく、違ってくるのよ? そのとき、お母さん。どこに心を置いて、聞いたり、話したりしていたの? どう? 必死になって、本当に娘さんやそのお友だちのお嬢さんのことを心配して、なんとかしてあげなきゃって思いで聞いた? 話ができてた?」
 
母親は言葉をなくした。そして、涙があっという間に浮かんでいた。そして、ただ、頷いていたのだ。そのお母さんは、わずかそれだけの言葉で、はっとなったのだ。自分がただ娘を心配するだけで、娘が大事にしている友だちへの気持、そこまでして友だちのことを心配し、疲れている娘の思いに心を深く置いていなかった…もしかしたら、そういう友だちとの付き合いはやめてほしい…そんな思いが先にあったかもしれない。
 
Mさんはいった。「もう一度、挑戦してみて。そして、がんばってみて。だって、あなたはだれよりも娘さんを大事の思える親なんだから。ねっ」。Mさんもお嬢さんのことをきっかけに、家庭教育の勉強を始めた人だ。母親の思いはわかっている。
 
語る人によって、物事の伝わり方が違ってくるというのは、こういうことだ。これは親子関係だけのことではない。語る人の思いや心がどこにあるのか…何を願い、何を大切に思って、その言葉が出るのか…そこが大切だということだ。うまく、上手に、わかりやすく伝えることだけが、人の心を動かすのではない。
 
不器用で、たどたどしてくても、わかりにくい話の流れでも、伝わるものは伝わる。一見、伝わっていないように思えるときでも、思いと願いがしっかりあれば、どこか心のひだに、それはひっかかっている。時間はかかっても、確かなコミュニケーションというのは、そこに生まれるのだ。