秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

問えばいい

世の中に起きるいろいろな問題…それを議論するとき、多くの人は、当然ながら、起きている問題そのものについて議論する。問題のカテゴリーの枠内で議論する。
 
確かに、眼の前に提出された現実の事象について語り合わなければ、それをどうするかの見通しや方向性は見えない。まして、直接つながりのない分野の話題を持ち出すと、議論が拡散する…ということを恐れるから範疇を出ない。これは、男性中心の議論形式が当然となっている社会の利点であり、欠点だ。
 
だが、より大切なことがある。そうした問題が起きている世の中の本質とは何なのか、問題を抱えてしまった社会をつくっているものは何なのか、そして、その社会をつくっている我々も含め、いまを生きる人々にどのような生活意識や精神があるのか…といったことも射程範囲のどこかに持っていないと問題の本質は解けない。

たとえば、世界を動かすリーダーが高邁な理想や国の未来を語る。しかし、それはプライベートな部分を含んでいないようにみえて、必ずどこかに、そのリーダーが生きてきた家庭や成育歴、あるいは成長の過程で受けた学校教育、社会教育、出会った人々の影響がある。

また同時に、ある一人のリーダーや多数派政党を選んだ、市民の一人ひとりにも、政治的利害関係や思想、信条とは別に、それまでに培われてきたプライベート体験が大きい。
 
つまりは、どういう親の家に生まれ、育ち、そこでどのような家庭教育を受け、かつ、成長過程において、なにを学校教育、地域教育、社会教育の中で学んできたか…ということだ。
 
パブリックな問題はパブリックに議論しなくてはいけない。だが、パブリックをつくっているのは、こうした多くのプライベート教育の集積でしかない。そのことに世界はずっと視線を向けてこなかった。全体の利益のためには、個人の利益を犠牲にする。その発想の根底にあるのも、そのためだ。
 
だが、個人の利益や幸せが守られない世界は、果たして全体の利益というものを考えられる世界なのだろうか。おそらくは、そのとき、全体の利益といっている人々の多くが、自分や自分が知る範囲の世界の利益をいっている。なにをして、全体というのか…という問いもないまま、全体といっているに過ぎない。
 
だからこそ、そこに情報操作や隠ぺいがあり、エンターテインメントによる大衆の骨抜きがあり、ポピュリズムによる大衆煽動がある。あるいは、多数の論理による、少数の抹殺がある。

つくりあげてしまった考えや歪な信念といわれるものをパブリックの場で糺すことは容易ではない。だが、パブリックというものが何によって成立し、支えられているかという現実に目を向ければ、問題はそう難しくはない。
 
黙々と畑を耕し、あるいは漁をやり、あるいはそれを加工する。第一次産業を支える人のひとりの手に刻み込まれた皺、日に焼けた顔、あるいはまがった腰…パブリックな、トレンドな、高邁な風の全体の利益を考えた議論は、そこで通用するのか…そう自らに問えばいい。