秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

見上げてごらん夜の星を

いまオレたちは、この世の無常と向き合わされている…。
 
太平洋戦争では、日本人だけで300万人以上がなくなった。家族、親族、友人、知人を失った人は、おそらく、その10倍。3000万人以上。しかも、都市部や工場地帯は米軍の空襲でほとんど壊滅状態。とりわけ、大きな都市周辺は東京、広島、長崎、沖縄だけでなく、無差別爆撃によって、一般住宅、公的施設まで失われていた。被災民は5000万人以上。当時の日本の人口の6割になる。
 
被災を免れたのは、都市では京都と東京の皇居だけだ。米軍が天皇文化遺産だけは残そうとした。
 
オレが子どもの頃には、傷痍軍人、戦争で負傷し身体的な障害を持った人たちが、失った足や腕に包帯を巻き、松葉づえをつき、白衣姿で道端に立ち、軍歌をアコーディオンで奏でながら、人々の憐みをもらうという風景が日常の中にあった。
 
いまでは差別用語になっているが、戦争で夫を亡くした、戦争未亡人が地域には当然のようにいた。地域とのつながりもなく、親族の多くを空襲で失った女性たちは、生活が成り立たなかった。いまのように女性の参政権もなければ、女性が働ける場も機会も少なかった時代だ。まして、自分の食料を確保するのがやっと、人の面倒を見れるだけのゆとりがなかった。

信じられないだろうが、東京では、米兵の性的な相手をする慰安所従業員が新聞広告で募集され、2000人以上の応募があったのだ。
そこに応募してきたのは、戦前から売春を生業といする人たちばかりでなく、市井の主婦はもちろん、旧華族や被災した工場の社長令嬢という人たちもいた。
 
戦前から男性のための岡場所、いわゆる娼婦街は国の管理下で存在した。俗に赤線といわれるものだ。国の認可のない娼婦街は青線と呼ばれていた。昭和20年代まで、女性が身を売るという文化がこの国では制度としてあったのだ。社会制度が整備されていない時代のことだが、戦争によって女性がそうした苦界に身を落とすことはいまでも珍しいことではない。

ある高齢の方から、こんな体験を聞かされたことがある。
 
父親は戦争で亡くなった。疎開先から被災した家に戻り、バラックを建てて生活を始めた。その方はまだ子どもだった。お母さんが毎日、満員電車で農家にいき、物と食べ物を交換してくる。それが命をつなぐ唯一の道だった。
 
戦後の復興に合わせて、次第にその方の家の生活も落ち着き、多くの日本人がそうだったように、敗戦当時からは想像もできない豊かな時代を迎えた。そして、お母さんは度重なる苦労で高齢になると何度も医者にかかるようになった。そして、もう長くはないと医師に宣告された。
 
娘として、悪意はなかった。母親が少しでも心安らかに死を迎えてほしいという思いだったのだろう。「病が続くのは、頑固なお母さんに心を変えなさいって神様が教えてるのよ。いままで、人にいえなくて、申し訳ないと思うがあるなら、素直にすべて話して、楽になって、いこうよ…」。
 
母親は、すると涙を流した。とめどなく、声にならない涙を流した。そして、語ったのだ。
あの貧しかった頃、食料を得るためにいった農家で、食料の代わりに体を求められ、それを繰り返していたことを…。
 
娘は、言葉が出なかった…。あのとき、疲れた体で遠くの農村から帰ってきた母が、子どもたちのために食事を作り、何事もないような顔で、ごはんを食べる子どもたちの笑顔をじっとみつめていた。おそらく、母親が墓の中まで、ひとり持っていこうとしていたつらい記憶…。
 
娘だったその方は、そのとき、もう60歳を越えていた。だが、その話を聞いてから、ずっと、なんと母親にひどいことをしたのか、親不孝なことをいったのかと、母親への申し訳なさを引きずり続けている。
 
オレたちの国は、GDP世界第二位だ、経済大国だ。バブルだとこれまではしゃいできた。中国に抜かれると、中国なんかに負けてなるかという声まであがった。バブル後の低迷の中で、年間自殺3万人以上という先進国でトップレベルの自殺者数を生みながら、やはり、景気のことばかりに心を砕き、人の痛みや人が生きていく上で大切なものを振り返ろうとはしてこなかった。

金さえあれば、幸せ…戦後の苦しみの中から生まれたその考えを全部は否定しない。しかし、忘れてはいけないものまで、オレたちは忘れていたのではないだろうか…とオレは思う。それは、無常ということだ。金や物、利便性などといったものは、所詮、何事も起きないという中でしか成立しない幻想だ。
 
オレたちはそれにしがみつき、繁栄の陰にある痛みをきちんと見ようとはしてこなかった。
 
その母親もそうだったと思う。慰安所の募集に集まった女性たちもそうだと思う。集団就職で田舎を出て、うまくやれずに横道にそれた子どもたちだってたくさんいた。
多くの理不尽な思いや悔しさ、それを一人ひとりが抱えながら、今日の日本は築かれていったのだ。
 
その孤独な思いをいやしてくれていたのは、いまCMでも流れている、こんな曲だった。あの頃の歌に、前向きに生きようとしながら、そこはかなとない悲しみが漂っているのは、人々の心にあった、無常への思い…いま、オレは改めて、そう思う。