秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

地域の新しい空間設計

人が人と何がしかの関係を結ぶ…というのを多くの人は偶然性にゆだねてしまう。
 
たとえば、こんな経験は多くの人にあるだろう。小学生や中学生の頃、クラス替えがあり、これまで同じクラスだった友人と別れると、それから縁遠くなったりする。席替えがあると、新しく近い席になった連中との会話が増え、以前、近い席で、よくおしゃべりしていた子と会話が乏しくなる。休み時間に一緒にいる人間関係が変わる。
 
つまりは、すべてクラス替えや席替えという空間の偶然性によって、他者との距離や関係が微妙に変化するのを容認し、かつそれは当然として、人は他者との関係を築いている。
 
そして、幼い意識は、短絡的に、会話する頻度の高さ、クラスという空間における距離の近さ=友人と誤謬する。「仲間意識」というのは、この実に頼りない偶然性によって生み出された他者との関係性を補強するために生まれ、それを補完するために、同じ言葉、同じ服装的特徴をあみだし、同じ笑いネタ、同じテレビアニメ、同じ人気タレント、あるいは、同じだれかの悪口に共感するといった情報の合致性をつくりだす。

いわば、幼い頃からつくられるその空間理解の作法
が日本人の同調圧力の源泉となっている。同時に、いじめの源泉もここにある。
 
生理学的にいってしえば、それは視床下部の動物本能に深く植え付けられたものだ。外敵と一定の距離を置く防御本能とそれによる敵対、排他行為へ傾く行動原理は、当然ながら、他者との空間における実質的な距離の関係に比例している。その安全な距離の中で、自分が占める占有空間を担保し、自分の居場所を動物=人は決定しているのだ。

いま就活中の大学生の息子が小学生のときだった。ある日、家に帰ると、食事のときに、母親から息子がスイミングスクールをやめたと聞かされた。オレは、息子にその理由を聴いた。すると、彼は、「友だちがいないから…」と答えた。
オレは、カチンときたw
 
そのときに、この空間共有の偶然性によって生み出される人間関係を友人関係ととらえている彼の意識をオレは説諭した。というと、難しい言い方になるがw 実際には、こういったのだ。
 
「友だちというものは偶然、同じクラスになった、席が隣になったといったことでできるものか? そこで友だち、親友というものとめぐりあうこともあるだろう。しかし、友だちをつくるというのは、そうした偶然に頼って、向こうからやってくるものではないんじゃないか?」
 
息子がやばそうな顔をしたのはいうまでもないw
 
「おまえは、スイミングスクールで友だちがいないから…といまいったが、じゃ、友だちをつくろうという努力をしたのか? 毎日学校で顔を合わせるなら、自然と友だちらしきものはつくれる。だが、いろいろな知らない子のいるスイミングスクールで、自分の方から声をかけて友だちをつくろとしたのかい?」
 
息子は当然、絶句するw
 
「そういう努力をしたうえで、スイミングスクールをやめたのなら、おまえがやめた理由に文句はいはない。しかし、おまえはそうした努力をしたのか? したうえでそういっているのか?」
 
息子は当然、しゅんとするw
 
「そうした努力もしないで、友だちがいないから…とひとつことをやりとげることができないような人間は、お父さんは好きじゃない。知らない人と出会い、うまくいかないことやいろいろな違いがある中で、友だちをつくるということが、本当の意味で友だちをつくるということなんじゃないだろうか。少なくともオレはそう思う。ただ、近くにいるから、それだけで本当に友だちといえるのか?」
 
そこで母親が助け舟を出した。ま、よくある展開で、私の思慮が足りなかったのだという責任をかぶる言い方だ。しかし、こういうシチュエーションではそれがないと息子が追い詰められるので、オレもよしとした。そして、最後にこういった。
 
「確かに、学校生活の中から無二の親友というものとも出会える。だから、学校の友だちは大事にしなくてはいけない。しかし、それだけではなく、いままで出会えなかった人、日本人だけではなく、外国の人も含めて、自分とは異なるものを持つ人たちと親しくなれる人間になろうという努力は惜しんではいけないとオレは思う」
「一緒に蓼科に遊びにいった、アメリカ人のポールや家に遊びにきてくれた、中国人のイェンさん、コウさんのような人たちとお父さんが親しくなれたのは、偶然の出会いに頼らず、彼らと友だちになろうという努力をしたからだよ。友だちというのは、近くにいるからではなく、そうやってつくっていくものだと思っているからさ」
「すでに、スイミングスクールをやめてしまったのだから、あえて行けとはいわない。だが、この次、何かを始めるなら、そのことを忘れないようにしてほしい。いいか?」

いま、地域再生がいわれる。そのときに、実は、この考え方が大事だと再認識している。距離の近さと同質性を重視した空間における地域共同体の姿は、地域力の低下をとどめることも、再生にも失敗してきた。次に必要なのは、距離や同質性ではないものとの相互補完=相互扶助を基本とした、新しい空間設計なのだ。